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朝、鮮やかな珍しい花の朝顔集:朝鮮珍花蕣集
一輪の朝顔に、どれほどの歴史と情熱が込められているか、想像したことはあるでしょうか。朝に咲き、昼にはその姿を閉じる朝顔の儚い美しさは、古くから日本人の心を捉えてきました。しかし、その刹那の輝きの中に、人々は不朽の遺産を見出し、それを形として残そうとする強い衝動を抱いていたのです。これは、無常の中に美を見出す日本の伝統的な美意識、すなわち「もののあわれ」に通じるものでありながら、同時にその美を永遠に留めようとする創造的な営みでもありました。
2024年9月22日


咲き薫る千年の美意識と江戸の熱情:『扶桑百菊譜』に見る花藝の深淵
秋深まる静寂の中、冷ややかな霜の降りる庭園でひときわ鮮やかに咲き誇る一輪の菊は、日本の風土と人々の細やかな感性に深く溶け込んできた美意識の結晶です。古くは中国大陸から薬草および観賞用植物としてもたらされた菊ですが、平安の宮廷から鎌倉の武家社会、そして江戸の町人文化へと時代が下るにつれ、単なる植物の枠を超え、日本人の生命観や美意識を投影する至高の花卉としての地位を確立しました。江戸時代中期にあたる享保21年(1736年)の仲春、百鞠亭児素仙の手によって編纂・刊行された『扶桑百菊譜』は、当時の人々が傾けた菊への熱烈な情熱と、極限まで高められた園芸技術の到達点を鮮やかに描き出した植物図譜の金字塔です。一頁一頁の木版刻描に込められた繊細な輪郭と多種多様な花姿は、観る者を江戸の文人や町人たちが集う絢爛たる菊花の宴へと誘います。古来より不老長寿の象徴として尊ばれてきた菊が、いかにして庶民の日常を彩り、世界に類を見ない「花芸」という鑑賞芸術の域へと昇華されたのでしょうか。千年の時を超えて受け継がれてきた美の系譜と、江戸の熱情が生み出した造形美の真髄をひもときま
2024年9月22日


四季の美に宿る生命の鼓動:『景年花鳥画譜』が紡ぐ日本の花卉文化と繊細なる美学
日本の風土が織りなす四季の移ろいは、古来より人々の感性を深く揺さぶり、詩歌や絵画をはじめとする多彩な文化芸術を結実させてきました。咲き誇る花々の艶やかさ、風に揺れる梢の繊細な佇まい、そして季節の訪れを告げる鳥たちの羽音は、単なる自然の情景にとどまらず、人々の心に寄り添う精神的な安らぎの源泉となってきたのです。このような自然への深い愛着と観察眼が集大成として結実した名作が、明治時代に日本画家である今尾景年によって制作された大著『景年花鳥画譜』にほかなりません。木版の紙上に広がる世界には、鮮やかな色彩で描き出された一羽の鳥の愛らしい表情や、微風にそよぐ一片の花弁のみずみずしい質感までが克明に写し取られています。季節の静寂と生命の躍動が見事に調和した画面は、見る者を深い自然の奥深くへと引き込み、移ろいゆく時の一瞬一瞬に宿る至高の美を体感させます。日本人が代々にわたって培ってきた花卉文化の深遠さと、自然の命を慈しむ美学の到達点が、この画譜の中には鮮やかに刻み込まれているのです。
2024年7月21日


暁に咲き匂う一瞬の幻影:『朝かがみ』が映す江戸園芸文化の美学と生命の幾何学
東の空がほの暗い薄明に包まれる早朝、朝露を濡らした葉の陰から人知れずひらめく花弁が存在します。日本の夏の風物詩として深く親しまれてきた朝顔は、単なる観賞用の一年生植物にとどまらず、江戸という稀有な泰平の時代において、人々の執念と美意識が結実した至高の芸術文化へと高められました。奈良時代に牽牛子と呼ばれる薬草として渡来して以来、千年の時を経て庶民の愛好植物となった朝顔は、幕末という動乱の足音が聞こえ始める文久1年(1861年)に至り、図譜『朝かがみ』という不朽の名作を結実させることとなります。『朝かがみ』は別名を『朝閑々美』とも記され、江戸時代後期に花開いた変化朝顔文化の精華を伝える貴重な図譜です。朝に咲いて昼前にはしぼんでしまう朝顔の一瞬の命を、永遠の美として留め置きたいという人々の切なる願いが、細密な絵筆と木版の技を通じて昇華されています。
2024年7月1日


清廉なる節に秘められた江戸博物学の真髄:武蔵石寿『竹譜』が紡ぐ生命の造形美
風に揺れる竹林の葉音は、古来より日本人の心に涼やかな風情と深い静寂をもたらしてきました。天に向かってまっすぐに伸びる青々とした幹、規則正しく刻まれた節目、そして幾重もの寒暑を耐え抜く常緑の美しさは、単なる風景の要素にとどまらず、人々の精神性や美意識と深く結びついていました。江戸時代後期に入ると、それまで中国の古典医学や薬草学に依存していた本草学が、緻密な実地観察と体系的な分類を重視する日本独自の博物学へと大きく進化を遂げます。自然界に存在する生命のありのままの姿を科学的な眼光と芸術的な情熱をもって記録しようとする試みが、市井の知識人や武士層の間で急速に広がりを見せた時代でした。こうした知的な熱気に満ちた時代背景のなかで、一人の幕臣であり本草学者であった武蔵石寿は、植物の代表格である竹という存在に深い関心を寄せました。武蔵石寿が遺した植物図譜『竹譜』は、単なる植物図鑑の枠を超え、竹の形態的特性や園芸文化、そしてそこに投影された日本人の美しい心の軌跡を多角的に収めた稀有な学術的・芸術的遺産です。
2024年6月9日


儚き一瞬に宿る千変万化の美学:『花壇朝顔通』に描かれた江戸園芸の真髄
『花壇朝顔通』は、江戸時代後期に刊行された、朝顔の多様な品種を図と文章で詳細に解説した図譜です。この書物は単なる植物図鑑の域を超え、当時の朝顔栽培における専門知識、鑑賞の基準、そして美意識が凝縮された、まさに「朝顔愛好家のバイブル」ともいうべき内容となっています。
2024年6月8日


翠鸞の山嶺に咲く命の精華:岩崎灌園『日光山草木之図』が紡ぐ江戸本草学の真髄と自然美学
重厚な老杉が立ち並び、深山幽谷の静寂に包まれた日光の山嶺には、古来より多種多様な山草や高山植物が自生し、独自の植生体系が形成されていました。江戸時代後期の文化6年(1809年)、この自然豊かな日光の地を踏みしめ、山野に咲く草木の一枝一葉に鋭い眼差しを注ぐ一人の人物がいました。江戸幕府の下級幕臣である徒士の家に生まれながら、本草学者として異彩を放った岩崎灌園であります。当時の日本社会では、八代将軍徳川吉宗が推し進めた財政再建と産業振興政策の一環として、海外からの高価な生薬輸入に伴う金銀流出を防ぐため、国内における生薬の調査と自給化が急務とされていました。幕府は享保5年(1720年)に丹羽正伯を最初の採薬使として抜擢し、箱根や日光をはじめとする全国の野山へ派遣して有益植物の採集と薬園への移植を行わせました。とりわけ寒冷かつ豊かな標高差を持つ日光の山々は、貴重な朝鮮人参の栽培指導が実施されるなど、生薬資源の重要な拠座として機能していました。
2024年5月25日


白緑の美学が織りなす江戸園芸の奇蹟:『草木錦葉集』に宿る命の変異と美の昇華
泰平の世が熟成した江戸時代後期、人々の自然への眼差しは花弁の華やかさのみにとどまらず、葉の上に現れる密やかな変異へと注がれていました。漆黒の緑の中に突如として出現する奇跡のような白や黄の斑紋、鋸歯状の波打ち、あるいは糸のように細く揺れる葉の造型は、当時の人々から「葉芸」あるいは「奇品」と称賛され、空前の熱狂をもって迎えられたのです。均一で調和のとれた正統の美ではなく、自然の気まぐれが生み出す不規則な変異の中にこそ究極の美を見出すという精神性は、世界的にも類を見ない独自の植物文化を醸成しました。文政12年(1829年)に刊行された『草木錦葉集』は、まさにこの江戸園芸文化の頂点を示す至高の植物図譜です。一般的な植物図鑑のように植物の標準的な形態や有用性を分類・解説することを目指した本草書とは異なり、本書は葉や茎に斑が入った「斑入り植物」のみを専門的に集大成した、世界初とも言える画期的な奇品植物集でした。
2024年5月23日


花開く百の麗姿:永斎筆『花菖蒲図譜』が誘う、江戸園芸文化の深奥
江戸時代後期の文化・文政期から幕末にかけて、日本の本草学と植物画の表現は互いに深く影響し合いながら目覚ましい発展を遂げました。文政11年(1828年)に岩崎灌園によって刊行された『本草図譜』に代表されるように、実見に基づく精緻な写生と彩色の技法が確立され、植物そのものが持つ造形美や変異の神秘性を愛でる観賞植物図譜の黄金期が到来したのです。永斎の手による『花菖蒲図譜』は、こうした時代精神の只中で生み出された美術的結晶と言えます。画面の構造を解剖すると、花弁に細かく走る筋状の花脈の線描は細密を極め、かすかな色彩のグラデーションや光を含んだ質感までが鮮やかな彩色技法によって描かれています。特に紫色や白色、淡い桃色、あるいは複雑な絞り模様といった多彩な配色が、枚々の花被片の上で優美に調和しています。さらに図譜に収められた品種名には、当時の江戸文化の粋と高雅な文学的教養が凝縮されています。
2024年5月12日


『花彙』と江戸本草学の精華:草木に注がれた先人の執念と知の継承
江戸時代における近代的な植物図鑑の先駆けとして知られる『花彙』の誕生の陰には、本草学の発展に生涯を捧げた二人の卓越した人物の絆と、熱い探求心が存在していました。その二人とは、本草家であり優れた画術の才能を兼ね備えていた島田充房と、後に「日本のリンネ」と称えられることになる偉大な本草学者・小野蘭山です。二人はともに、京都において実証的本草学の礎を築いた名高い本草家・松岡恕庵の門下生であり、島田充房は小野蘭山にとって学問の道をともに歩んだ大切な兄弟子にあたりました。師である松岡恕庵が延享3年(1746年)に世を去ると、当時まだ18歳であった小野蘭山は、他の師につくことなく独学で本草学の研究を深めていきました。小野蘭山は京都に「衆芳軒」と呼ばれる私塾を開き、全国から集まる門人たちに本草学を講義する傍ら、自ら日本各地の野山に足を運ぶ採薬旅行を重ね、膨大な植物の観察データを蓄積していきました。一方で兄弟子の島田充房もまた、中国の書物に依存しない、日本固有の植物生態を網羅した高精度の植物図集を作り上げたいという強い意志を抱いていました。
2024年5月5日


万物の理を顕す美しき図説:中村惕斎『訓蒙図彙』に咲く草木と江戸本草学の源流
徳川幕府の治世が安定を迎え、都市文化が大きな発展を遂げつつあった江戸時代前期の寛文6年(1666年)、京都の地において日本の文化史および学術史を揺るがす一冊の書物が刊行されました。寛永6年(1629年)に生まれ元禄15年(1702年)に没した朱子学者であり本草学者でもある中村惕斎の手によって編纂された『訓蒙図彙』です。本書の成立には、著者である中村惕斎がわが子の教育を思い、言葉の獲得とともに世界に存在する万物の形状や名称を正しく理解してほしいと願った温かな親心が込められていました。それまでの知識体系は漢籍を中心とした文字主体の難解な記述が多く、幼少者や初心者が直感的に世界を把握することは容易ではありませんでした。中村惕斎は多様な古典や文献を緻密に考証し、事物一つひとつに対して精細な図画と正確な名称を対比させて配する画期的な手法を打ち立てました。この試みは日本における最初の本格的な絵入り百科事典として結実し、庶民から知識人に至るまで幅広い層の観察眼を養う大きな原動力となりました。
2024年5月5日


雨下に澄む和の美意識:近代植物学の眼がすくい取った百花の息吹
初夏の雨に 洗われた庭園の水辺において、凛とした姿で紫や白の花弁を広げる花菖蒲は、日本の四季が織りなす風景の中でひときわ美しい彩りを放ちます。梅雨空の深く静かな空気感と鮮やかな花色の対比は、古来より人々の心を魅了し、独特の感性と美意識を育む源泉となってきました。同様に、初夏の光を受けて壮麗に咲き誇る芍薬の花もまた、その豊かな大輪の姿と格調高い佇まいによって、日本の伝統花卉文化を代表する存在として人々に深く愛されてきました。日本における花卉の文化は、単に植物を観賞するにとどまらず、季節の移ろいに自らの心を重ね合わせ、自然の営みそのものを芸術として高めようとする精神性と密接に結びついています。とりわけ江戸時代は、花を愛でることが広く社会的な娯楽として普及し、上流階級から町人層に至るまで多様な人々が園芸に親しんだ黄金期でした。数多の園芸家や愛好家たちの情熱と繊細な観察眼によって、花菖蒲や芍薬をはじめとする数多くの品種改良が生み出され、日本独自の多様な花卉文化が大きく開花したのです。
2024年5月4日


絢爛たる百花の意匠と文明開化の情操:『芍薬花譜』に咲き誇る近代園芸と木版美術の昇華
文化の発展期である明治31年(1898年)に、京都の朝陽園から上梓された図譜が、賀集久太郎の編纂による『芍薬花譜』です。本作は、当時栽培されていた多種多様な芍薬の優美な品種群を、高度な彩色木版画の手法を用いて克明に記録した美術的・学術的価値の極めて高い名著として知られています。賀集久太郎は、後年の明治35年(1902年)に遺稿として『薔薇栽培新書』が出版されるなど、明治期の花卉園芸と栽培技術の普及に深い足跡を残した人物であり、植物への深い生態的観察眼と美術的な表現技術を見事に融合させました。文明開化の光彩のなかで生み出された『芍薬花譜』は、単なる植物図鑑の域を超え、自然への敬虔な情愛と木版職人の緻密な技、そして近代日本人が抱いていた風雅な美学が見事に結実した最高峰の文化遺産といえます。
2024年5月3日


浮世の華と百花繚乱の競演:三代歌川豊国と初代歌川広重が紡ぐ『当盛六花撰』の美学
江戸時代末期の安政元年(1854年)、大都市として成熟を極めていた江戸の街角に、一筋の清涼な風を吹き込む浮世絵が掲げられました。版元である錦昇堂から世に送り出された大判錦絵の揃物『当盛六花撰』は、当時の庶民を熱狂させていた二大文化、すなわち舞台上で異彩を放つ歌舞伎役者と、人々の暮らしに深く根差した熱狂的な園芸文化を見事に融合させた至高の教養作品です。夏の暑さが残る夕暮れ時、格子戸の隙間から通り抜ける川風を受けながら、涼やかな夏姿で佇む役者たちの姿が描かれています。白地に青の絵付けが映える器に入れられた冷たいところてんや寒晒粉の白玉に砂糖を添えて楽しむ情景や、涼やかな紫の扇子を手に夕涼みをする佇まいは、江戸っ子たちが愛した「粋」の美意識そのものを表現しています。役者たちの背景には、瑞々しく咲き誇る紫陽花や菖蒲、朝顔といった季節の花々が画面狭しとクローズアップで描かれており、画面全体から季節の移ろいと生命の匂いが立ち上ってくるかのようです。
2024年4月28日


花鳥画に息づく日本の心:幸野楳嶺が描いた自然への讃歌と花卉/園芸文化の美
幸野楳嶺は、天保13年(1842)に京都の商家の息子として生を受けました。幼い頃から絵画に才能を示し、京都画壇の伝統的な四条派の画家である中島来章に師事し、後に山水画の大家である塩川文麟からも学びました。この京都の伝統的な絵画の素養が、彼の芸術の基盤を形成しました。
2024年4月17日


19世紀の写生美学と異国の草花:貴志忠美が『竹園草木図譜』に描いた咲き誇る生命の記憶
江戸時代後期の静寂な情景の中に、博物学的な情熱が百花繚乱のごとく開花した時代が存在しました。太平の世が熟成し、本草学が単なる薬用植物の分類学を超えて、草木の生態そのものを慈しむ写生美学へと深化を遂げた幕末の世において、一人の幕臣が静かに毛筆を走らせていました。その人物の名は貴志忠美であり、号を竹園または朝暾と称した旗本でした。貴志忠美が残した肉筆の植物図譜『竹園草木図譜』は、時代の変革期における知的好奇心と、自然の造形に対する深い敬愛が結晶した美しき遺産です。当時の江戸社会では、大名から旗本、さらには庶民に至るまで空前の園芸ブームが巻き起こり、珍奇な花卉や変種植物の栽培が競われていました。しかし、貴志忠美の眼差しは単なる娯楽や珍しさの追求に留まりませんでした。身近な野草から異国より伝来した未知の草木に至るまで、その生命のありのままの姿を紙上に定着させようとする執念は、当時の本草学界においても鮮烈な存在感を放っていました。落日の江戸社会において、可憐な草木に寄せられた眼差しは、変容する世界に対する静かな探求心そのものでした。
2024年4月16日


花と知の探求:幕末の博物学者、貴志忠美が描いた「本草寫生」の世界
幕末の足音が聞こえ始める江戸時代後期、社会が大きな構造的転換期を迎えるなかで、一輪の花や一本の草の命に深い敬意を払い、その瑞々しい姿を極彩色の墨彩で紙上に留めた作品が存在します。駿府奉行を務めた幕臣、貴志忠美が安政元年(1854年)に著したとされる『本草寫生』は、単なる植物図鑑や薬草解説書の枠組みを超越した、至高の観察記録であり肉筆の写生帳です。画面いっぱいに広がる葉脈の走り、微小な花弁の重なり、そして茎のしなやかな曲線には、客観的な博物学的知見と、生あるものに対する深い情愛が美しく結実しています。当時の人々にとって植物を描く行為は、単に有用性を記録する実用的な作業にとどまらず、自然界の秩序や生命の営みを探求する重要な精神的営為でした。貴志忠美の手による作品が「図譜」ではなく「写生帳」と称される背景には、目の前で芽吹き、花開き、やがて枯れゆく草木の刹那の命を、ありのままの呼吸とともに捉えようとした執念が潜んでいます。黒船来航をはじめとする内外の緊迫した情勢が江戸幕府の足元を揺るがしていた時期に、静かに植物と向き合い続けた貴志忠美の眼差しは、現代を
2024年4月16日


咲き誇る命の美学と江戸琳派の真髄:酒井抱一『鶯邨畫譜』が奏でる自然観と園芸文化の昇華
江戸の街が町人文化の成熟とともに咲き誇っていた文化14年(1817年)、根岸の「鶯の里」と呼ばれた閑静な地に、一筋の清冽な美的風気が漂っていました。かつて姫路藩主の次男という高い格性を持ちながら、世俗の権勢を離れて風雅の道に身を投じた絵師、酒井抱一が庵を定めた雨華庵であります。朝もやのなかに鶯の声が響き渡るこの地で、酒井抱一は自らの雅号「鶯邨」を冠した木版多色摺画譜『鶯邨畫譜』の版木に、深遠なる美意識を刻み込んでいました。『鶯邨畫譜』が開かれた瞬間、紙上には富士の静謐な山姿をはじめ、柔らかな春風に揺れる糸桜、可憐に佇む菫や蒲公英、秋の哀愁を漂わせる女郎花、そして優美な公卿や官女の姿が、流麗な線描と淡い彩色によって立ち現れます。本作は単なる鑑賞用の画集にとどまらず、当時の絵を学ぶ人々や草花を愛でる園芸愛好家に向けて、和の草花や縁起物、人物画の描き方を示す絵手本として刊行されました。
2024年4月16日


爛漫たる大正の美意識を刻む版木:山田芸艸堂『彩美』に咲き匂う植物図案と手摺木版の系譜
明治から大正へと時代が移り変わる京都の街角には、伝統的な和墨の薫香とともに、新たなる近代美学の息吹が漂っていました。西洋から流入した斬新な色彩感覚や装飾様式が、日本の伝統的な美意識と深く交錯した大正時代(1912年〜1926年)は、人々の装束や生活美学に劇的な変革をもたらした時代です。とりわけ女性たちの和装文化においては、四季折々の草花を身に纏う喜びが、かつてないほど自由で華麗な意匠となって開花しました。その変革の只中で生み出され、後世に伝承されることとなった着物デザイン図版集が、芸艸堂から刊行された幻の図案集『彩美』です。染織意匠における植物モチーフは、単なる表面的な装飾に留まりません。蕾がほころび、葉が揺れ、蔓が気品高く伸びていく姿には、日本人が古来より育んできた繊細な自然観と季節の移ろいへの敬意が込められています。『彩美』の頁をめくれば、そこに広がるのは、野に咲く一輪のアザミや優美な梅、露を帯びた朝顔など、生命の脈動をそのまま版上に留めたかのような美しい草花の姿です。
2024年4月16日


近代造園学の黎明と伝統意匠の体系化:小沢圭次郎の軌跡と『園籬圖譜』に見る境界美学
小沢圭次郎が遺した膨大な古典史料群の中に、日本の庭園意匠に関する重要な写本である『園籬圖譜』が含まれています。現在、国立国会図書館に所蔵されている本書は、縦27センチメートルの和装一冊で構成されており、表紙や巻頭には明治17年(1884年)に小沢圭次郎(小沢圭)自身が記した識語が残されています。蔵書印には「小澤皆園寄賞之印」「小澤圭」「瑞卿」「小澤文庫」などの印影が明確に捺されており、小沢圭次郎が自らの庭園研究の重要な基礎資料として愛蔵・手元に保持していた歴史的足跡を物語っています。『園籬圖譜』の核心的価値は、江戸時代中期から幕末にかけて考案・発展した庭園の垣根(垣根や囲い)の意匠や図様を、緻密な描線と構成によって一堂に集録した点にあります。江戸時代の日本における職人技術や作庭の技法は、長らく親方から弟子への口伝や密伝という形をとって継承されることが多く、図面や図譜として体系的に記録・出版される機会は極めて限定的でした。しかし、明治維新以降の急速な文明開化に伴い、伝統的な職人組織の解体や数多くの庭園の崩壊が進んだため、意匠の喪失という深刻な事態に
2024年4月15日


万葉の野に咲く生命の韻律:鹿持雅澄が『万葉集品物図絵』に託した草木考証と美の昇華
奈良時代末期の天平宝字3年(759年)頃に成立したと伝わる『万葉集』は、天皇や皇族から名もなき防人や東国の農民に至るまで、多種多様な人々の心が詠み込まれた日本最古の和歌集です。全20巻に収められた約4,500首におよぶ歌の数々のうち、およそ3分の1にあたる1,700余首には何らかの植物が詠み込まれております。古代の人々にとって、野山に自生する一輪の花や風に揺れる一筋の草は、単なる背景の風景にとどまらず、自らの情念や祈り、そして生命の営みそのものを投影する不可分な存在でした。朝露を孕んで咲く萩のしなやかな揺れや、早春の雪解けとともに可憐な花を覗かせるカタクリ(堅香子)の佇まいは、数千年の時を超えて現代に生きる私たちの心をも深く揺さぶります。このような太古の息吹と草木が持つ文化史的価値を、細密な絵姿と緻密な考証によって後世に伝えようとした試みが、江戸時代後期の国学者である鹿持雅澄の手による『万葉集品物図絵』です。
2024年4月15日


墨線に咲く江戸の美学:『艸花絵前集』が紡ぐ知と自然の賛歌
徳川幕府の統治下で長期にわたり維持された泰平の世は、人々の心に豊かな情操とゆとりをもたらし、身近な草木を慈しむ文化を成熟させました。元禄期を中心とする都市文化の隆盛に伴い、植物を育てる営みは実用や薬用といった従来の領域を超え、将軍家や大名屋敷から旗本、市井の町人に至るまで広く浸透する広範な園芸ブームへと発展しました。この活気あふれる植物愛好の波を支え、江戸一番の植木屋として全国にその名を知られた一脈の拠点が、武陽染井(現在の東京都豊島区駒込付近)の地でした。染井は日当たりと水はけに恵まれた地形的優位性を持ち、江戸城下へ良質な草木を供給する園芸技術者の集積地として機能していました。この地で代々「伊兵衛」の名を襲名した伊藤家は、造園と花卉栽培において突出した技術を誇り、時代の園芸嗜好を牽引しました。なかでも三代目にあたる伊藤伊兵衛三之丞と、その息子である四代目伊藤伊兵衛政武は、長年の栽培経験で培った深い観察眼と知見を整理し、書籍として世に問う出版活動に情熱を注ぎました。
2024年4月14日


異国の風が薫る幕末の写生帖:渡辺又日菴と『新渡花葉圖譜』が映す美意識の変訪
二百年以上にわたる鎖国体制のもとで独自の文化を発展させてきた江戸時代の日本において、幕末という時代は政治機構のみならず人々の自然観や美意識にも大きな変革をもたらす節目となりました。安政6年(1859年)の開港を境に、横浜や長崎などの港を通じて異国の文化や品々が相次いで渡来し、それまで目にしたこともない多様な外来植物が日本列島へと足を踏み入れました。長崎の出島を経由して細々と持ち込まれていた蘭船渡来の草花に加え、開港後は世界各地を原産地とする色鮮やかな花卉や珍奇な葉を持つ植物が大量に流入し、武士から本草学者、市井の園芸愛好家に至るまで、多くの人々を魅了しました。こうした動蕩の時代において、尾張名古屋の地で西洋由来の新渡植物をいち早く収集し、その精妙な姿を写生し続けた一人の文化人がいました。尾張藩の重臣であり茶人・本草家としても名高い渡辺又日菴です。渡辺又日菴が天保末年から明治初期の長きにわたり描き溜めた植物図鑑『新渡花葉圖譜』は、幕末という劇的な時代における日本人の植物受容の歴史を鮮やかに留めた第一級の文化遺産です。
2024年4月13日


命を繋ぐ慈悲の画本 : 建部清庵が『備荒草木図』に託した救荒の志と草木美学
建部清庵は宝暦6年(1756年)に救荒の原理や理論をまとめた文章主体の『民間備荒録』を完成させ、一関藩へ献上しました。しかし、文字を読むことが難しい一般の庶民や農民にとって、文章のみで類似した有毒植物と可食植物を見分けることには限界がありました。そこで建部清庵は、『民間備荒録』の理論を応用し、誰もが視覚的にひと目で植物を識別できる実践的な図譜の作成に着手しました。これが『備荒草木図』の起点となります。 制作にあたり、建部清庵は古老たちを訪ねて伝承を聞き取り、弟子たちに山野での植物採集や栽培を命じました。さらに、同じ陸奥国江刺郡岩谷堂村の遠藤志峯から『荒歳録』という書物や草木の標本の提供を受けるなど、地域を越えた広範な協力関係を構築しました。原図の制作は一関藩の画工である北郷子明(北郷元喬)が担い、実物の形状や特徴を精密に描写した図版が整えられ、明和8年(1771年)に草稿が完成しました。
2024年4月5日
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