異国の風が薫る幕末の写生帖:渡辺又日菴と『新渡花葉圖譜』が映す美意識の変訪
更新日:8月7日
1. 太平の静寂を揺らす開国の風と黒船の時代に芽吹いた新たな華
二百年以上にわたる鎖国体制のもとで独自の文化を発展させてきた江戸時代の日本において、幕末という時代は政治機構のみならず人々の自然観や美意識にも大きな変革をもたらす節目となりました。安政6年(1859年)の開港を境に、横浜や長崎などの港を通じて異国の文化や品々が相次いで渡来し、それまで目にしたこともない多様な外来植物が日本列島へと足を踏み入れました。長崎の出島を経由して細々と持ち込まれていた蘭船渡来の草花に加え、開港後は世界各地を原産地とする色鮮やかな花卉や珍奇な葉を持つ植物が大量に流入し、武士から本草学者、市井の園芸愛好家に至るまで、多くの人々を魅了しました。
こうした動蕩の時代において、尾張名古屋の地で西洋由来の新渡植物をいち早く収集し、その精妙な姿を写生し続けた一人の文化人がいました。尾張藩の重臣であり茶人・本草家としても名高い渡辺又日菴です。渡辺又日菴が天保末年から明治初期の長きにわたり描き溜めた植物図鑑『新渡花葉圖譜』は、幕末という劇的な時代における日本人の植物受容の歴史を鮮やかに留めた第一級の文化遺産です。
植物は単なる博物学的な観察の対象にとどまらず、異国の文明と日本伝統の美学とが交差する重要な接点でもありました。『新渡花葉圖譜』の紙面に踊る繊細な筆致と緻密な観察記録は、幕府の使節団が海を渡って持ち帰った一粒の種子が、いかにして地方の都市文化や個人の庭園へと伝播し、新たな価値観を芽吹かせたのかを現代に力強く物語っています。本稿では、渡辺又日菴の波乱に満ちた生涯と茶人としての精神性、そして『新渡花葉圖譜』に記録された新渡植物の生態と歴史的文脈を深く解き明かしていきます。
2. 藩政の重責から風雅の境地へ:渡辺又日菴の生涯と美学の軌跡
渡辺又日菴(本名:渡辺規綱)は、寛政4年(1792年)に三河国奥殿藩主である松平乗友の次男として江戸で誕生しました。享和2年(1802年)に叔父にあたる尾張藩重臣・三河寺部領主の渡辺綱光の養子となって名古屋へ移り、文化元年(1804年)に養父の隠居に伴い家督を相続して尾張藩万石年寄である渡辺半蔵家の第10代当主となりました。文化14年(1817年)には最高職である加判の列(家老職)に就任して従五位下兵庫頭に叙任されましたが、文政2年(1819年)、わずか28歳の若さで職を辞し、家督を長男の渡辺寧綱に譲って隠居しました。
この早期の隠居こそが、渡辺又日菴を卓越した風雅の道へと導く大きな契機となりました。天保6年(1835年)には出家して兵庫入道と名乗り、又日菴や宗玄などの号を用いて、茶の湯、作陶、本草学の世界へと深く没頭していきました。作陶においては「宗玄焼」と呼ばれる独自の楽焼風の茶碗を手捏ねで制作し、茶道具の目利きや名品の収集家としてもその名を馳せました。
渡辺又日菴の文化史における最も大きな功績の一つに、尾張藩における茶道流派の転換が挙げられます。渡辺又日菴には18歳離れた実弟がおり、後に裏千家第11代精中宗室(玄々斎)となる人物でした。渡辺又日菴の媒介によって玄々斎は尾張藩に出仕し、茶道に強い執心を持っていた第12代藩主・徳川斉荘の師となりました。これにより、それまで有楽流が中心であった尾張徳川家の茶風は裏千家へと刷新され、尾張地方における茶の湯の発展に決定的な影響を与えました。
若くして政治の第一線から退き、侘びの美学を極めた渡辺又日菴の情熱は、やがて自然界の造形と異国から届く新たな草木へと向けられました。当時、名古屋には伊藤圭介らを中心とする本草学者のネットワークが存在し、渡辺又日菴もこうした知識人たちと深い交流を持ちながら、自邸の庭園に数々の珍しい舶来植物を植えて観察を重ねました。武士としての品格と茶人としての審美眼、そして本草家としての探究心が融合した地平において、渡辺又日菴独自の植物描写が確立されていったのです。
3. 使節団が持ち帰った種子と尾張に花開いた外来園芸文化のリアル
幕末における西洋植物の流入速度は、外交の進展とともに加速度的に増していきました。安政年間から幕末にかけては、蘭船持ち渡りの種類が急増したことに加え、日本の外交使節団が海外から持ち帰った種子が大きな役割を果たしました。万延元年(1860年)の日米修好通商条約批准のために派遣された万延元年遣米使節は、北米大陸から数百種類にも及ぶ草木の種子を携えて帰国しました。この時に南米原産のマツバボタンをはじめ、キンギョソウ、ペチュニア、スイートピー、ジギタリスなどの種子が初めて日本に導入されました。また、文久2年(1862年)の文久遣欧使節によってもコスモスやクロタネソウなどの種子がもたらされ、日本各地の園芸愛好家のもとへと広がっていきました。
渡辺又日菴が残した『新渡花葉圖譜』は、これら最新の渡来植物が尾張の地へ到達した軌跡を鮮明に捉えています。本図譜の原本は渡辺又日菴の手によるものでしたが、大正3年(1914年)に伊藤圭介の孫である伊藤篤太郎が渡辺又日菴の後裔である渡辺不仙から借り受け、自らの母であり優れた画才を持っていた伊藤小春(伊藤圭介の五女)に乞うて緻密に転写させた写本が現在国立国会図書館に収蔵されています。
全2冊(乾・坤)からなる本図譜は、乾巻に天保末年から元治元年(1864年)までの95項、坤巻に元治元年(1864年)から明治3年(1870年)までの52項、併せて約130種の外来植物が収められています。単に形状を描くだけでなく、その草木がいつ渡来し、江戸や大坂の花戸(植木屋)を経由して何年に尾張へ持ち込まれたかが詳細に注記されている点が本図譜の卓越した特徴です。たとえば、パンジー(図譜中では「小蝶花」)については慶応2年(1866年)の冬に江戸から尾張へ届いたと記されており、イギリスから文久2年(1862年)冬に渡来してからわずか数年で名古屋の庭園に咲いていたことが分かります。さらにハナビシソウやムシトリナデシコの一種についても文久3年(1863年)に尾張へ流入した経緯が細かく記されています。
比較項目 | 『新渡花葉圖譜』(渡辺又日菴 著 / 伊藤小春 写) | 『遠西舶上画譜』・『群英類聚譜』(馬場大助 著) | 伝統的本草学図譜(『本草図譜』等) |
著者・記録者の背景 | 尾張藩家老・茶人・本草家(渡辺又日菴) | 江戸幕府旗本(馬場大助) | 本草学者・医家(岩崎灌園等) |
収録植物の特性 | 幕末期(天保末〜明治初期)の新渡外来植物(約130種) | 幕末期に長崎や蘭船経由で渡来した西洋草花 | 薬用植物・国内自生種および古来の渡来種 |
地理的・流通的注記 | 渡来年・入手年・尾張(名古屋)への流入経路(江戸・大坂等)を明記 | 江戸到着を中心とした初期渡来的観察記録 | 形態・分類・薬効を中心とし、流通の記述は限定的 |
外交史との連動性 | 遣米使節(1860年)・遣欧使節(1862年)持ち帰り品の地域伝播を反映 | 開港前後の蘭船持ち渡り品および初期舶来品の記録 | 鎖国下における中国・オランダ経由の既知知識の体系化 |
美学的・表現的様式 | 茶人の審美眼と本草学的精密観察が融合した繊細な水彩写生 | 旗本文化に裏打ちされた精密で洗練された絵画表現 | 博物学的正確性と分類学的な実用性を最重視した図解 |
この対比から明らかなように、『新渡花葉圖譜』は単なる写生画集を超えて、国際的な外交交渉の産物である種子がどのような経路を経て地方都市の文化的空間へ運ばれたかを示す、動的な歴史資料としての価値を備えています。渡辺又日菴は、西洋の図鑑のような客観的視点を保ちつつも、和紙と墨、筆という伝統的媒体を用いて異国の生命を温かみある造形として描き出しました。
4. 浮世の荒波を越える静寂の観察:茶人の死生観と植物に託された象徴
渡辺又日菴がこれほどまでに強い執念をもって外来植物の観察と描画に没頭した背景には、茶人としての精神性と、幕末の激動期に経験した過酷な運命が深く関わっています。利休以来の伝統的な茶の湯においては、自然のままの質素な姿を尊ぶ「野にあるように」という美学が重んじられ、派手な色合いや異質な外来種は茶席から遠ざけられる傾向がありました。しかし、渡辺又日菴は新しい時代の到来を肌で感じ取り、西洋由来の草花が持つ造形美や鮮烈な色彩に対しても偏見なく向き合い、そこに新たな自然の秩序を見出しました。
この包容力ある審美眼の背景には、渡辺又日菴自身の凄絶な人生経験が存在します。家督を長男の渡辺寧綱に譲り、悠々自適の隠居生活を送っていた渡辺又日菴でしたが、幕末の動乱期において大きな悲劇に見舞われました。元治元年(1864年)の禁門の変において、渡辺家の家督を継いでいた孫の渡辺綱倫が長州兵との戦闘における責任をとって自害するという未曾有の事態が生じたのです。渡辺又日菴は70歳を超える老齢でありながら、生後間もない曾孫の渡辺綱聡の後見役として、渡辺家の存続と家臣たちを支える重責を再び担わなければなりませんでした。
幕府の崩壊、家門の危機、そして身内の凄惨な死という荒波のただ中で、渡辺又日菴が心の拠り所としたのが、静かに庭で咲き誇る植物たちの営みでした。政治や武力の対立によって人間社会がどれほど混迷を極めようとも、海を越えて届いた異国の種子は、季節が巡れば変わらずに芽吹き、美しい花を咲かせます。人間存在の儚さと無常さを知る老茶人にとって、植物が見せる生命の力強さと普遍的なサイクルは、深い癒やしと救いそのものでした。
『新渡花葉圖譜』に描き留められた一筋の茎や細やかな花弁の描写には、単なる博物学的な好奇心を超えた、生命への尊厳と深い愛着が宿っています。異国の地から運ばれた未知の花に自らの人生や死生観を投影し、一期一会の出会いを紙上に永遠として留めようとした渡辺又日菴の精神構造は、まさに日本文化が誇る「侘び」と「変容への柔軟な受容力」の極致と言えます。
5. 時代を超えて暮らしに息づく新渡の彩りと現代への継承
日本花卉文化株式会社は、日本人が永い歴史の中で培ってきた植物への深い愛情と、花とともに生きる豊かな美意識を現代に受け継ぎ、未来へと発信することを目指しています。幕末の風雲のさなかで渡辺又日菴が描き残した『新渡花葉圖譜』は、私たちが今日当たり前のように目にしている街角の風景や庭園の草花が、いかに豊かな歴史的ドラマを経てここに存在するのかを教えてくれます。
現代の私たちが日常的に愛でているパンジー、マツバボタン、ペチュニア、スイートピー、コスモスなどの花々は、160年前の幕末期において、遣外使節団や異国の船によってもたらされた「新渡」の希望の種子でした。それらの未知の命を温かく迎え入れ、慈しみ育て、その美しさを記録として後世に繋いだ渡辺又日菴をはじめとする先人たちの情熱があったからこそ、今日の豊かな花卉文化が結実したのです。
伝統的な審美眼を守りながらも、新たな時代の風を柔軟に取り入れて独自の美へと昇華させた渡辺又日菴の姿勢は、多様化する現代社会を生きる私たちにとっても普遍的な道しるべとなります。日本花卉文化株式会社は、こうした歴史の深みと先人たちの情熱に学びながら、植物がもたらす心豊かな暮らしと自然との調和をこれからも提案し続けてまいります。『新渡花葉圖譜』に咲く鮮やかな花々は、時代を超えて今の私たちの心にも瑞々しい潤いと品格ある余韻を与え続けています。
乾巻
渡邉又日庵 撰『新渡花葉圖譜』[1],伊藤小春写,1914. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2558209
坤巻
渡邉又日庵 撰『新渡花葉圖譜』[2],伊藤小春写,1914. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2558210
参考
明治前園芸植物渡来年表


