top of page

命を繋ぐ慈悲の画本 : 建部清庵が『備荒草木図』に託した救荒の志と草木美学

  • 2024年4月5日
  • 読了時間: 8分

更新日:8月7日



1. 飢饉の惨禍を越えて芽生えた救済の誓い




江戸時代中期の宝暦5年(1755年)、東北地方全域を襲った激しい冷害は、田畑の作物を悉く奪い去り、極めて凄惨な大飢饉を引き起こしました。陸奥国一関藩の城下においても、飢えに打ちひしがれた人々が路傍に倒れ、混迷を極める情景が広がっていました。この窮状を目の当たりにし、人々の命を救うべく立ち上がった一人の藩医が建部清庵です。建部家は初代一関藩主である田村建顕に召し抱えられて以来、代々藩医を務める名門であり、二代目にあたる建部清庵はその優れた医術と深い仁愛によって、「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」と領民から俗謡で称賛されるほど絶大な信頼を集めていました。  


建部清庵は、医療の現場で連日繰り広げられる悲劇に心を痛めていました。命を繋ぐために山野の草木を口にする人々が、知識の不足から有毒な植物を誤って採取したり、適切な毒抜きを行わずに体調を崩して命を落としたりしていたためです。さらに建部清庵を深く嘆かせたのは、飢饉という災厄が一度過ぎ去ると、人々がその恐ろしい経験を容易に忘却し、将来への備えや記録を残そうとしない人間の危うさでした。  


再び大凶作が訪れた際、同じ悲劇を絶対に繰り返してはならないという強い危機感と医者としての使命感が、建部清庵の心を動かしました。山野に自生する植物の正確な識別法と正しい調理法を解明し、一人の餓死者も出さないための救荒書を編纂することこそが自らの課せられた責務であると確信し、救荒植物の調査という膨大な事業へ着手することになりました。  




2. 蘭学の曙光と救荒思想の交錯




建部清庵が提示した救荒思想の背景には、伝統的な本草学の知見に加え、西洋医学や蘭学に対する深い関心と実証的な観察眼が存在していました。建部清庵は一関という江戸から離れた地方に身を置きながらも、常に中央の学問的動向に心を配り、最新の知見を取り入れる柔軟な精神を備えていました。  


明和7年(1770年)閏6月、建部清庵は日頃から抱いていたオランダ医学に関する疑問や自らの所見をまとめ、江戸へ遊学する門人の衣関甫軒に託して、当時の蘭医学の先駆者であった杉田玄白のもとへ届けさせました。これを契機として、建部清庵と杉田玄白との間で実に22年間にわたる学術的な往復書簡が交わされることになります。この貴重な議論の記録は、後に建部清庵の門人であった大槻玄沢の手によって編集され、寛政7年(1795年)に『和蘭医事問答』という名で刊行されました。この問答集は、日本における初期蘭学の指導的な教科書として高く評価されました。  


建部清庵の学術的な姿勢は、単に西洋の知識を受容するにとどまらず、優れた人材を育成する教育という形でも結実しました。一関出身の大槻玄沢を育て上げて江戸の杉田玄白に入門させたほか、四男である建部由甫(後の杉田伯元)を杉田玄白の養子として送り込むなど、江戸の蘭学界の中核を担う人脈を構築しました。  


このような西洋科学的な実証主義の態度は、救荒植物の研究にもいかんなく発揮されました。建部清庵は古い伝承を過信することなく、実際に自生する植物の生態を細かく観察し、解毒の方法や可食部位についての検証を重ねました。中国から伝来した『救荒本草』などの古典を基礎としつつも、日本の風土に即した実践的な救荒学を確立しようとした背景には、蘭学との接点によって養われた科学的合理性と、目の前の命を救おうとする情熱の融合がありました。  




3. 百四の草木図譜に結集した叡智と技法




建部清庵は宝暦6年(1756年)に救荒の原理や理論をまとめた文章主体の『民間備荒録』を完成させ、一関藩へ献上しました。しかし、文字を読むことが難しい一般の庶民や農民にとって、文章のみで類似した有毒植物と可食植物を見分けることには限界がありました。そこで建部清庵は、『民間備荒録』の理論を応用し、誰もが視覚的にひと目で植物を識別できる実践的な図譜の作成に着手しました。これが『備荒草木図』の起点となります。  


制作にあたり、建部清庵は古老たちを訪ねて伝承を聞き取り、弟子たちに山野での植物採集や栽培を命じました。さらに、同じ陸奥国江刺郡岩谷堂村の遠藤志峯から『荒歳録』という書物や草木の標本の提供を受けるなど、地域を越えた広範な協力関係を構築しました。原図の制作は一関藩の画工である北郷子明(北郷元喬)が担い、実物の形状や特徴を精密に描写した図版が整えられ、明和8年(1771年)に草稿が完成しました。  


しかし、建部清庵の生前には出版に至らず、天明2年(1782年)に世を去ることになります。その志を継いだのは、建部清庵の実子であり杉田玄白の養子となった杉田伯元でした。杉田伯元は校訂作業を進めるにあたり、義弟の杉田立卿とともに草木の名称について当時最高峰の本草学者であった小野蘭山に教授を仰ぎました。さらに、不完全であった一部の植物図については、洋風画家の石川大浪や蘭学者であり優れた博物学者でもあった宇田川榕庵らに描き直しを依頼するなど、江戸蘭学界の知のネットワークを結集して補訂を行いました。  


こうして完成した『備荒草木図』が板本として刊行されたのは、草稿完成から約60年が経過した天保4年(1833年)、東北地方を再び襲った「天保の大飢饉」の最中のことでした。幕府医官の石坂宗哲や杉田立卿らの序文を添えて世に出た本書は、多くの人々の命を救う救荒の書として社会に広まりました。  


項目

『民間備荒録』

『備荒草木図』

完成・刊行年

宝暦6年(1756年)完成 / 明和8年(1771年)刊行

明和8年(1771年)草稿完成 / 天保4年(1833年)刊行

表現形式・構成

文章中心の理論的・総論的記述(和装本2巻)

精密な木版図版中心の実践的・応用的な図譜

主たる対象読者

藩幹部、知識層、村役人、医師

一般庶民、農民、文字の読めない人々

収録植物数

下巻に約85〜88種の救荒植物を記述

食用可能な山野の自生植物104種を網羅

記載内容の重点

飢饉への心構え、貯蔵法、解毒法、救護策

姿形の精緻な描写、可食部、調理法、味の要約

制作・編集協力者

建部清庵(単著・一関藩へ献上)

北郷子明、遠藤志峯、杉田伯元、杉田立卿、小野蘭山、石川大浪、宇田川榕庵など

 




4. 山野の生命に宿る美学と救済の精神




『備荒草木図』に収められた104種の植物には、日常で見過ごされがちな雑草や山野の自生植物が数多く含まれています。例えば、春の訪れを告げるスギナやツクシ(接続草)について、本書は単なる季節の風物としてではなく、生存のための糧として取り上げています。スギナは茎と葉を十分に煮茹でしてから水に晒し、米や麦に混ぜ込んで「かて飯」とすることで主食の嵩増しに役立つこと、ツクシは茹でた後に塩や味噌で調味して副食とすることが具体的に指示されています。  


また、野山に可憐な花を咲かせるアマナ(山慈姑)についても、球根を採集して煎じて食すほか、磨き潰して粉末にし、餅に加工して食べる方法が記載されています。そのほかにも、スミレ、キキョウ、ヘチマ、クヌギなど、四季の彩りを添える植物たちが、いかにして人間の生命を維持する食料となり得るかが、可食部位やアク抜きの工程とともに丁寧に解説されています。  


本の伝統的な美術や文学において、花卉や草木は主に風流や美の象徴として愛でられてきました。平安時代の和歌や江戸時代の派手やかな園芸文化に見られるように、自然の美しさを鑑賞し、そこに無常観や風雅を見出す精神性は、日本人の自然観の中核をなすものです。しかし、建部清庵が『備荒草木図』で見せた視線は、それらとは一線を画するものでした。


建部清庵にとって、野に咲く草木は単なる鑑賞の対象ではなく、極限状態において人間の命を繋ぎ止めてくれる慈悲の生命体でした。そこには、自然を人間と対立するものとして捉えるのではなく、自然の恵みに深く感謝し、その生命力を体内に取り入れることで苦難を乗り越えようとする、日本人の根底にある自然観が色濃く反映されています。雑草と切り捨てられがちな山野の植物に光を当て、その構造を細部まで描き出した木版図画の端正な線描には、観察者としての科学的眼差しと、命に対する深い敬意が宿っています。




5. 現代に響き合う先人の足跡と植物文化の未来




建部清庵が厳酷な大飢饉の惨状の中で紡ぎ出した『備荒草木図』の志は、時代を超えて現代を生きる私たちの心に強く語りかけています。日本花卉文化株式会社が発信する本コラムの視点においても、先人たちが育んできた植物に対する深い洞察と情熱は、単なる歴史的遺産にとどまらず、持続可能な社会を目指す現代の暮らしの中に脈々と息づいています。


今日、私たちは気候変動や環境変化、食料安全保障といった新たな課題に直面しています。自然の猛威の前に人間の無力が露呈する時代だからこそ、かつて宝暦や天保の苦難に立ち向かい、野の草木の中に生き抜くための希望を見出した建部清庵の情熱と先見の明は、よりいっそうの輝きを放ちます。身近な自然に目を向け、そこに潜む生命の力強さを正しく理解し、活用していく知恵は、私たちが自然と調和しながら未来を築くための不変の指針となります。


一関の地に響き渡った「時の太鼓」の音とともに、民を救うために捧げられた建部清庵の命への慈しみと植物学的な探求心は、今も『備荒草木図』の静謐なる図版の中に生き続けています。足元に咲く一草一木に感謝を捧げ、その命の尊さを愛でる豊かな精神性を未来へと継承していくことこそが、先人たちの足跡に報いる道であり、現代の植物文化が果たすべき真の使命です。








備荒草木図 乾


建部由正『備荒草木図 2巻』,天保4 [1833]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606693










備荒草木図 坤


建部由正『備荒草木図 2巻』,天保4 [1833]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606693











参考













bottom of page