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枯淡の灯火に揺れる草木の命:常陸笠間藩主・牧野貞幹『写生遺編』が紡ぐ大名本草の真髄と美意識
江戸時代後期の静けさが深く染み渡る夜、常陸笠間藩主の執務室には、行灯の仄かな光が揺らぎ、紙と墨の匂いが密やかに満ちていました。多忙な藩政の重責を担う大名でありながら、政務の合間に静かに筆を握り、目の前の草木や鳥類に向き合っていた人物こそが、常陸笠間藩第4代藩主の牧野貞幹です。牧野貞幹が残した手稿本図譜の金字塔『写生遺編』、とりわけ植物を描いた『草木之類』は、一国の城主が描いた記録の域を遥かに超え、学術的な観察眼と流麗な美的感性が響き合う至高の博物誌として異彩を放っています。紙の上に再現された野草や花卉の姿には、繊細な茎のしなり、葉脈の一本一本に注がれた密やかな筆致、そして花弁が魅せる深い色彩のグラデーションが刻み込まれています。当時の本草学が単なる薬用実用志向から、自然のあらゆる生命を客観的かつ美的に観察する博物学へと発展していた時代背景のなかで、牧野貞幹の表現は植物学的な正確さと日本画特有の詩的情緒を見事に融合させていました。静寂の中で生み出されたみずみずしい描画は、時空を超えて現代を生きる私たちの心にも、咲き誇る命の脈動を爽やかに届けています
2025年7月4日


国学者・賀茂真淵と植物:古道の探求が育んだ深淵
賀茂真淵(元禄10年 (1697年) - 明和6年 (1769年))は、江戸時代中期の国学において極めて重要な位置を占める学者であり、歌人です。賀茂真淵は、荷田春満(かだのあずままろ)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに「国学四大人(しうし)」の一人に数えられ、国学の基礎を築いた功績は計り知れません。
2025年6月29日


歌川豊国(三代)が描く、江戸の四季と花卉の美:錦絵帖が誘う日本の伝統文化
歌川国貞、後の三代歌川豊国は、天明6年(1786)に江戸本所(現在の東京都墨田区)で生まれ、本名を角田庄五郎と称しました 。材木問屋と渡し船の株主という、比較的裕福な家庭に育った国貞は、幼い頃から歌舞伎の魅力に深く取り憑かれ、役者絵を無数に模写する日々を送っていました。その才能は早くから開花し、寛政12年(1800)頃、わずか15歳で歌川派の総師である初代歌川豊国に入門。その際、師が国貞の才能の片鱗に大いに驚いたという逸話も残されています。国貞は20代前半という異例の若さで浮世絵師としてデビューを果たし、文化4年(1807)には本の挿絵を、翌年には一枚物の挿絵を手掛け始めました。特に役者絵と美人画という浮世絵の二大ジャンルにおいて傑出した才能を発揮し、幕末期において最高の人気絵師としての地位を確立しました。国貞の生涯にわたる作品数は膨大で、20,000点以上にも及ぶと言われており、これは数ある有名浮世絵師の中でも群を抜いて最多級の記録です。この驚異的な生産性は、当時の浮世絵が単なる芸術品に留まらず、大衆文化を牽引する一種の「メディア」として機能し
2025年6月26日


明治の文明開化に咲き誇る伝統美:豊原国周『十二ヶ月花合』にみる花卉文化と歌舞伎絵の昇華
明治13年(1880年)、東京の街並みには馬車が行き交い、レンガ造りの建築が立ち並ぶなど、文明開化の波が急速に押し寄せていました。新聞や写真といった西洋由来の新しい視覚メディアが台頭する中で、江戸時代以来の庶民の娯楽であり情報源であった浮世絵は、大きな時代の転換期に立たされていました。過渡期の熱気と変化の焦燥が交錯する中、有名版元である武川清吉から刊行されたのが、浮世絵師・豊原国周の手による全12枚の錦絵シリーズ『十二ヶ月花合』です。本作は、古来より日本人が育んできた伝統的な「花合わせ」や「花かるた」という文雅な趣向を骨格とし、そこに当時の歌舞伎界で絶大な人気を誇った名優たちの姿を組み合わせた大判錦絵の傑作です。縦35.8㎝、横24.3㎝ほどの画面には、四季折々に咲き誇る花々の生命感と、舞台の上で一瞬の美を放つ役者の気迫が見事に調和しています。
2025年6月26日


日本近代植物学の夜明けを拓いた巨人:本草学者・伊藤圭介の生涯と知の探求
日本の四季を彩る花々、心を和ませる庭園の風景は、私たちの生活に深く根ざした花卉・園芸文化の象徴です。この豊かな文化の根底には、古くから自然を慈しみ、その生命の神秘を探求してきた人々の知の歴史が息づいています。現代の私たちが当たり前のように享受している植物の知識や分類体系は、一体どのようにして築き上げられてきたのでしょうか。その問いの答えの一つに、江戸から明治へと激動の時代を生き抜き、日本の近代植物学の礎を築いた一人の偉大な本草学者、伊藤圭介の存在があります。伊藤圭介の生涯は、まさに伝統と革新が交錯する日本の知の変遷を体現しており、その飽くなき探求心と社会貢献への情熱は、時を超えて私たちに多くの示唆を与えてくれます。伊藤圭介の物語を辿ることは、単なる歴史上の人物の足跡を追うに留まりません。それは、日本の自然観がいかにして近代科学と融合し、今日の花卉・園芸文化、ひいては自然科学全体に深い足跡を残したのかを探る、壮大な知的発見の旅へと私たちを誘います。本稿では、伊藤圭介の多岐にわたる功績と、伊藤が日本の知の発展に果たした役割を深く掘り下げていきます。
2025年6月25日


墨香に咲く楓葉の記憶:伊藤圭介と『槭品類図考』が紡ぐ知と美の譜律
明治時代も末期に差し掛かる頃、その楓の多様な美に生涯の学問的探求と美的感性を傾けた一人の老学者が存在しました。日本の近代植物学の礎を築いた本草学者、伊藤圭介です。伊藤圭介が93歳を迎える明治26年(1893年)から明治30年(1897年)頃に編纂したとされる植物図譜が『槭品類図考』です。この図譜の扉には「九十三翁」という印記が押されており、老境に達してもなお衰えぬ無垢な観察眼と自然への情熱が刻まれています。『槭品類図考』には、120種にも及ぶカエデの葉の形態が精緻に描き出されています。文字による解説文を一切削ぎ落とし、純粋に図そのものの力によってカエデの多様な姿を伝える構成は、観賞者に深い静寂と感動を与えます。静謐な紙の上に墨の濃淡のみで表現された葉の造形は、科学的な観察記録としての客観性を備えながら、同時に一幅の水墨画のような風雅を漂わせています。知の探求と美の創造が奇跡的な調和を果たしたこの作品は、江戸時代から明治時代へと継承された日本の花卉文化の真髄を今に伝えています。
2025年6月25日
の一部を写した図です。画面の左側には、細やかな針葉が特徴的な松の枝ぶりが描かれ、画面右側には色鮮やかな椿の花が生き生きと表現されています。江戸時代末期の豊かな自然観と、写実的な植物描写の魅力を伝えるビジュアルです。](https://static.wixstatic.com/media/4c55a0_f34dcb3b62c24b5987f1ba11d76acfc8~mv2.jpg/v1/fill/w_333,h_250,fp_0.50_0.50,q_30,blur_30,enc_avif,quality_auto/4c55a0_f34dcb3b62c24b5987f1ba11d76acfc8~mv2.webp)
の一部を写した図です。画面の左側には、細やかな針葉が特徴的な松の枝ぶりが描かれ、画面右側には色鮮やかな椿の花が生き生きと表現されています。江戸時代末期の豊かな自然観と、写実的な植物描写の魅力を伝えるビジュアルです。](https://static.wixstatic.com/media/4c55a0_f34dcb3b62c24b5987f1ba11d76acfc8~mv2.jpg/v1/fill/w_320,h_240,fp_0.50_0.50,q_90,enc_avif,quality_auto/4c55a0_f34dcb3b62c24b5987f1ba11d76acfc8~mv2.webp)
一光齋芳盛が描いた『艸木畫譜』の世界:江戸の自然観と美意識が息づく植物画譜
日本の四季が織りなす繊細な美、そして一輪の花に宿る生命の神秘に、心を奪われることは少なくありません。古来より、日本人は自然の中に普遍的な美を見出し、それを生活や芸術に取り入れてきました。花卉・園芸文化もまた、その豊かな感性の結晶であり、私たちの生活に彩りを与え続けています。
本記事では、江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した浮世絵師、一光齋芳盛(いっこうさい よしもり)が手掛けた植物画譜『艸木畫譜』に光を当てます。この画譜は、単なる植物図鑑の枠を超え、当時の日本人の自然観、美意識、そして知的好奇心がいかに深遠であったかを現代に伝える貴重な「窓」の役割を果たします。
2025年6月24日


幸野楳嶺が描く「千種の花」:日本花卉文化の精髄と未来への継承
日本の四季は、その移ろいの中で豊かな自然の表情を見せ、古くから人々の心に深く根ざした花卉文化を育んできました。単に美しい花を愛でるだけでなく、その姿に人生の機微や哲学を見出し、生活や精神、さらには芸術にまで昇華させてきたのが、日本の花卉文化の真髄と言えるでしょう。この深遠な世界を現代に伝える貴重な遺産の一つが、明治期の日本画家、幸野楳嶺が遺した植物画譜『千種の花』です。本稿では、この画譜がどのような作品であり、いかなる歴史的背景のもとに生まれ、そして現代を生きる私たちに何を語りかけるのかを深く探求します。日本の花卉文化は、単なる過去の遺物ではありません。それは、自然への深い敬意と生命の尊厳、そして「もののあはれ」や「わびさび」といった日本独自の美意識が凝縮された、まさに「生きた文化遺産」と呼ぶにふさわしいものです。幸野楳嶺の『千種の花』は、この文化の奥深さを視覚的に捉え、過去の美が現代の感性にも響く普遍性を持つことを示しています。花を単なる物理的な存在としてではなく、内面的な感情や哲学を映し出す鏡として捉える日本の独特な文化観が、この画譜には色濃
2025年6月24日


立原道造と植物:詩と建築が織りなす日本の植物文化
現代の喧騒の中で、私たちはしばしば、日常に潜む美しさを見過ごしがちです。しかし、古くから日本人は、自然、特に花や植物に、深い精神性や哲学を見出し、それを文化として育んできました。この豊かな花卉・園芸文化の歴史を紐解くとき、一人の夭折の詩人、立原道造の存在が浮かび上がります 。彼の短い生涯は、詩と建築という二つの芸術に捧げられましたが、その根底には常に、植物への繊細な眼差しと、自然との共生を願う心が息づいていました。 立原道造の作品は、単なる言葉の羅列ではなく、まるで心の中に広がる庭園のように、私たちを静謐で美しい世界へと誘います。立原の描いた「植物」は、単なる風景の一部ではなく、立原の内面世界や、理想とする生き方を映し出す鏡でした。日本の花卉文化を語る際、多くは具体的な植物の栽培法や、生け花のような造形美に焦点が当てられますが、立原の詩世界は、その物理的な側面を超え、植物が持つ普遍的な生命力や、それが人間に与える精神的な影響に深く迫ります。
2025年6月24日


日本の心象風景を彩る花:桔梗の魅力
桔梗は、日本を含む東アジアを原産とするキキョウ科キキョウ属の多年草です。その草丈は品種によって幅があり、20cmから150cmにまで成長します 。初夏にあたる6月から秋の10月にかけて、長い期間にわたって開花期を迎えます。
2025年6月24日


碧緑の風がそよぐ紙上の苑地:亀井協従『夏木譜』に宿る美学と江戸本草学の光芒
強烈な陽光が照りつけ、万物が生命のエネルギーを極限まで滾らせる季節において、樹々は青々と茂り、鮮やかな花々を咲かせます。江戸時代後期の都市文化において、人々は咲き誇る夏の植物に清涼な美を見出し、日常の美学として愛でていました。そうした夏の息吹を紙の上に留め、後世へと伝える結晶として誕生したのが、彩色本草画録である『夏木譜』です。『夏木譜』は、夏に花を咲かせる樹木や草木に焦点を絞り、極めて詳細かつ流麗な彩色をもって描き上げられた本草図譜であり、単なる博物学的な記述の枠を超えた真の芸術作品として位置づけられます。葉脈の一本一本に注ぎ込まれた観察眼、瑞々しい花弁の質感を再現する色彩感覚は、まさに紙の上に築かれた「生ける苑地」といえます。厳しい暑さの中で凛と立つ樹木たちの姿は、静謐でありながら豊かな生命力に満ちており、見る者の心に深い余韻をもたらします。
2025年6月20日


漆黒の闇に浮かび上がる仙境の花園:伊藤若冲『玄圃瑤華』が織りなす白黒の美学と生命観
江戸時代中期の京都において、絵画表現の新たな地平を切り拓いた天才絵師、伊藤若冲が明和5年(1768年)に53歳で刊行した『玄圃瑤華』は、観者の美意識を深く揺さぶるモノクロームの傑作版画集です。伊藤若冲といえば、宮内庁が所蔵する国宝『動植綵絵』に象徴されるような、極彩色の絵具を細密に重ね合わせた華麗な花鳥画を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、この『玄圃瑤華』において提示された世界は、色彩を一切排し、漆黒の墨と紙の白さのみで構築された、極めて抽象度の高い図版集です。作品の題名に冠された「玄圃」とは、中国の神仙思想において崑崙山に存在すると伝えられる仙人の住処であり、「瑤華」とは玉のように美しく気高い花を意味しています。全48図から構成されるこの画帖には、人里の庭先や野山で見られる身近な草木、野菜、そしてそこに寄り添う昆虫や小動物たちが描かれています。伊藤若冲は、日常の中に存在するありふれた命の姿を、仙人が遊ぶ理想郷の美しい花園へと高めました。
2025年6月1日


掌中の長旅に咲く縮景の美学:歌川芳重『東海道五十三駅鉢山図繪』が紡ぐ江戸の園芸思想と旅情
『東海道五十三駅鉢山図繪』は、東海道五十三次の宿場風景や名所旧跡、聳え立つ山々や流れる川、橋や街並みといった旅路の情景を、器の中に石や土、砂、植物などを配して立体的に模した「鉢山」と呼ばれる縮景造形物として表現した作品です。当時、大坂で珍しい石や海外からの渡来品を好む唐物趣味の知識人として知られた木村唐船は、自らの手で東海道の風景を幾重もの鉢の中に立体的に再現しました。そして、その精巧を極めた立体造形美を、歌川国芳の門下で異彩を放っていた歌川芳重が鮮やかな木版画として紙上に描き留めたのです。掌に収まるほどの小さな鉢のなかに広がる無限の風景は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。一足踏み出せば遥か遠方の宿場へと誘われるようなその立体的な世界観は、現実の旅行が容易ではなかった市井の人々に対し、部屋にいながらにして街道を歩むかのような臨場感と深い情緒を提供しました。単に風景を平面に写し取るのではなく、育まれる植物の命と無機質な石の表情を組み合わせることで、生きた旅路の息吹を部屋の中に持ち込むというこの試みは、江戸時代の庶民文化が到達した美的表現の極致と
2025年6月1日


鏡花の夢、光影に咲く古心:ニューヨーク公共図書館の古写真に見る花卉文化と美意識‐続
The New York Public Library(ニューヨーク公共図書館)に保存されている
江戸~明治時代・日本の名所/花の写真。
2025年6月1日


鏡花の夢、光影に咲く古心:ニューヨーク公共図書館の古写真に見る花卉文化と美意識
文明開化という激動の波が押し寄せ、社会の仕組みや人々の装いが急速に変貌を遂げていた幕末から明治時代にかけての日本において、変わらぬ佇まいで季節の訪れを告げていたのは咲き誇る花々でした。米国ニューヨーク公共図書館(NYPL)のデジタルコレクションには、この揺籃の時代に撮影された「日本の名所や花の古写真」が大切に収蔵されています。ガラス乾板や蛋白銀塩写真という極めて初期の撮影技術によって定着された光景は、単なる歴史の記録にとどまらず、往時の空気をそのまま閉じ込めたかのような深い静謐さと抒情を湛えています。画面の中に広がるのは、満開の桜の下で佇む風流人、清らかな水辺に凛として大輪を咲かせる花菖蒲、あるいは格式高い庭園で力強く咲き誇る大菊の姿です。単色の諧調の中に残された写実的な光景に、熟練した職人の手によって緻密な色彩が施されたこれらの手彩色写真は、現実の風景でありながらどこか夢幻的な情緒を漂わせています。二百年以上にわたる鎖国政策が終焉を迎え、西洋の高度な撮影技術が流入する中で、日本人が古来培ってきた自然への敬意と造形感覚が出会うことにより、まったく
2025年6月1日


境界を編む江戸の美学:楠田右平次『百垣之図』に宿る職人の業と自然観
垣根の制作において最も重要視されたのは、使用する植物素材の生態的特性を深く観察し、耐久性と美観を高い次元で両立させる構造の構築でした。竹垣の組み立てにおいては、全体の骨格を支える両端の親柱と中間に立て込む間柱を強固に設置し、そこに割り竹や竹枝を幾何学的に編み込むことで、風圧にしなやかに耐える強度と透空の美を生み出します。また、竹を結束する黒縄の結び目は、構造的な補強にとどまらず、画面全体を引き締める繊細なデザイン上のアクセントとして機能していました。一方で生垣においては、樹木の萌芽力や剪定に対する耐性、常緑性といった植物学的な特性が緻密に考慮されました。椿やサザンカ、ツツジなどの樹木は、定期的な手入れに耐えうる強靭さを備え、年間を通じて密な緑の壁を保ちながら、季節ごとに鮮やかな花を咲かせるため、生垣の主要な素材として重宝されました。職人たちは植物が生きて成長し続けることを前提とし、数年後の枝振りや葉張りまでを見越して剪定と誘引を行っていたのです。
2025年6月1日


朝顔三十六花撰に息づく江戸の美意識:儚き花に宿る「粋」の精神
江戸時代後期、人々を熱狂させたのが「変化朝顔」と呼ばれる奇品の数々でした。本来の円形の花輪や心臓形の葉からは想像もつかない、八重咲きや細かく切れ込んだ花弁、柳や笹のように変化した葉を持つ不規則で幻想的な朝顔の出現は、武士から庶民に至るまであらゆる階層の人々の心を深く魅了しました。文化・文政期(1804年-1830年)に起きた第一次ブームに続き、幕末の嘉永・安政期(1848年-1860年)には第二次変化朝顔ブームが巻き起こり、千二百を超える系統が生み出されるほどの熱狂が社会全体を包み込みました。そうした熱狂的な園芸文化が最高潮を迎えた嘉永7年(1854年)の只中で、ある一冊の稀有な植物図譜が誕生しました。それが、本稿の主題である『朝顔三十六花撰』です。
2025年6月1日


『作庭記』に息づく平安の庭:橘俊綱が紡いだ自然の美学
橘俊綱(1028-1094)は、平安時代中期から後期に活躍した重要な人物です。俊綱は官人、歌人としての顔を持つ一方で、日本庭園史において極めて大きな足跡を残しました。『作庭記』は、まとまった作庭書としては世界最古のものとされており、平安時代後期の11世紀後半に成立したと見られています。この書は、寝殿造の庭園に関する意匠と施工法を記しており、絵図を一切用いずすべて文章で記されている点が特徴です。その内容は、後の日本庭園の発展に決定的な影響を与え、日本庭園の根本理念が記されていると評価されています。
2025年5月29日


黄金の雲間に光解く生命の躍動:狩野永徳の『檜図屏風』に結実した桃山の精神と大樹の美学
戦国の長い混迷を経て天下統一へと向かうエネルギーが沸き立った安土桃山時代(1543年-1590年)は、日本の文化史において最も豪華絢爛でダイナミックな美的革新が遂げられた時代でした。織田信長や豊臣秀吉といった覇者たちが歴史の表舞台に君臨し、自らの威光と権力を視覚化するために求めた美は、繊細な静寂よりも、観る者を一瞬で圧倒する重厚な存在感と溢れ出る生命力でした。その旺盛な時代精神の要請を受け、画壇の最高峰として君臨した絵師が狩野派の覇者、狩野永徳でした。狩野永徳が最晩年である天正18年(1590年)に手掛けた国宝『檜図屏風』は、まさにこの桃山美術が到達した豪壮華麗な美の極致を体現する傑作です。画面全体には眩い金箔が隙間なく敷き詰められ、金碧障壁画、いわば黄金のキャンバスに濃密な絵の具を重ねる技法によって、煌びやかな光の空間が立ち現れています。その金雲の合間から姿を現すのは、一本の巨大な檜の大樹です。幹を歪ませ、大枝を縦横無尽にしならせる姿は、あたかも地上に降り立った龍が荒々しくのたうち回っているかのような凄まじい躍動感を放っています。
2025年5月28日


武蔵野図屏風:月の入るべき峰もなし、武蔵野の詩情
「武蔵野図屏風」は、日本の絵画、特に江戸時代(1615年~1868年)において顕著な位置を占める画題であり、その表現は多岐にわたります。これらの屏風は、広大で詩的な連想に富む武蔵野の秋の情景を描写するのが一般的です。かつては野趣あふれる広野であった武蔵野は、現在では東京北部を中心とした人口密集地となっています。しかし、その地名は古典文学において古くから詩的な場所、すなわち「歌枕」として重要な意味を持ち続けてきました。例えば、『万葉集』や『伊勢物語』にもその名が見え、広大な草むらが広がっていたと想像されます。
2025年5月27日


幕末・明治期の博物学者・田中芳男の植物学への貢献:近代日本の農業と博物学の礎を築いた生涯
田中芳男の活動期間は、鎖国が解かれ、西洋の科学技術や社会システムが急速に導入され、日本が近代国家へと変貌を遂げる時期と同期していました。この時代において、「博物学」は単なる学術的探求に留まらず、国家の「殖産興業」(産業育成)という実用的な目標と強く結びついていました。蕃書調所での物産学研究から始まり、万国博覧会への参加、そして明治政府での農商務省勤務へと進んだキャリアパスは、まさに当時の国家的な要請に応えるものでした。植物学に深く関わったのは、食料、繊維、医薬品など、植物が国家の富を増やすための直接的な資源であったためです。したがって、その貢献は単なる学術的探求に留まらず、国家戦略の一環として位置づけられます。植物学への貢献は個人の学術的興味から生まれたものだけでなく、富国強兵・殖産興業という当時の国策を推進するための不可欠な要素でした。その活動は、科学知識が国家の発展に直接貢献するという近代国家の理念を体現していたと言えます。
2025年5月26日


文学と草木が織りなす精神の華鏡 :植物文学の提唱者・松田修が探求した日本人の美学
古来、日本人は身の回りに息づく草木に対して単なる生物学的な関心にとどまらない、深い精神的な寄託を重ねてきました。風に揺れる一片の花弁に人生の儚さを重ね、深く根を張る巨木に神聖な生命力を感じ取るまなざしは、日本の文化と文学の根底を流れる静かな伏流水です。こうした人と植物との深遠な結びつきを学術的な体系として提示し、「植物文学」という独自の領域を切り拓いた人物が、昭和時代を代表する農学者であり文学者の松田修です。明治36年(1903年)6月28日、山形県に生まれた松田修は、昭和3年(1928年)に東京帝国大学農学部を卒業しました。農学という自然科学の厳密な知見を基礎としながらも、その視線は常に人間が紡ぎ出してきた言葉の世界、とりわけ上代から平安時代に至る古典文学へと向けられていました。科学の眼で植物の態様を精緻に観察しつつ、人文科学の感性で文芸作品に刻まれた先人の情念を読み解く「植物文学」のアプローチは、いわば自然科学という精密な「顕微鏡」と、文芸解釈という深い情操を映す「望遠鏡」を同時に覗き込むような画期的な知の試みでした。
2025年5月25日


臥して見つめし草木:正岡子規
東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)の落ち着いた街並みの一角に佇む簡素な住居「根岸庵」の六畳間には、日本の近代文学史において不滅の足跡を刻んだ一人の文豪が伏していました。慶応3年(1867年)に伊予国松山(現在の愛媛県松山市)の地に生まれ、明治時代(1868年〜1912年)の文壇を疾風のように駆け抜けた正岡子規です。子規の晩年は、執拗な病魔との苛烈極まる闘いの歴史でもありました。不治の病として恐れられていた肺結核は、やがて結核菌が背骨を侵す脊椎カリエスへと進行しました。この脊椎カリエスという病態は、例えるならば家屋を支える中心の大黒柱がシロアリによって内側から少しずつ蝕まれ、建築物全体の構造が悲鳴を上げて崩れ去っていくような状態に相当します。劇烈な激痛と背中からの膿汁の排出により、子規は自力で立ち上がるどころか寝返りすら打てなくなり、「病床六尺、これが我世界である」と自ら記したように、畳一枚分ほどの布団の上が子規の生存のすべてとなったのです。
2025年5月25日


屏風に咲く墨の詩:鶴亭「花木図押絵貼屏風」に宿る禅と写実の美 参考図・伊藤若冲「花鳥図押絵貼屏風」
「花木図押絵貼屏風」は、鶴亭(かくてい・1722-1785)の筆による絵画作品です 。江戸時代中期の明和4年(1767)に制作されたとされており 、これは鶴亭の活動時期の中期に位置する作品です 。技法は紙本墨画、すなわち水墨画による押絵貼屏風であり 、各扇に個別の水墨画が描かれ、それらが屏風の台紙に貼り付けられています。寸法は各図が縦133.0cm、横50.5cmで、六曲一双の形式で構成されており、合計12面の絵が連なります 。この貴重な作品は九州国立博物館に所蔵されています 。
2025年5月24日
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