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幕末・明治期の博物学者・田中芳男の植物学への貢献:近代日本の農業と博物学の礎を築いた生涯

  • 2025年5月26日
  • 読了時間: 17分

更新日:8月4日


勲章を多数付けた儀礼服の男性の白黒肖像。正面を厳しい表情で見つめ、背景は暗く、斜めの飾帯が目立つ。
田中芳男肖像 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 田中芳男君七六展覧会記念誌 大日本山林会 1913


近代日本の夜明けと博物学者・田中芳男




田中芳男(1838-1916)は、幕末から明治、大正という激動の時代に活躍した傑出した博物学者であり、日本の近代化に多方面から貢献した人物です。信濃国(現在の長野県)飯田に生まれ、79歳でその生涯を閉じました。広く「日本の博物館の父」として知られる人物ですが、本稿では多岐にわたる功績の中でも、特に植物学への貢献に焦点を当て、その詳細を深く掘り下げます。


田中芳男の活動期間は、鎖国が解かれ、西洋の科学技術や社会システムが急速に導入され、日本が近代国家へと変貌を遂げる時期と同期していました。この時代において、「博物学」は単なる学術的探求に留まらず、国家の「殖産興業」(産業育成)という実用的な目標と強く結びついていました。蕃書調所での物産学研究から始まり、万国博覧会への参加、そして明治政府での農商務省勤務へと進んだキャリアパスは、まさに当時の国家的な要請に応えるものでした。植物学に深く関わったのは、食料、繊維、医薬品など、植物が国家の富を増やすための直接的な資源であったためです。したがって、その貢献は単なる学術的探求に留まらず、国家戦略の一環として位置づけられます。植物学への貢献は個人の学術的興味から生まれたものだけでなく、富国強兵・殖産興業という当時の国策を推進するための不可欠な要素でした。その活動は、科学知識が国家の発展に直接貢献するという近代国家の理念を体現していたと言えます。


「博物学者」と称される田中芳男の活動は、植物学、動物学、鉱物学といった多岐にわたる分野に及んでいました。しかし、主著が『有用植物図説』であり、新種植物の導入や品種改良に特に注力した点を見ると、博物学の中でも「植物」が中心的な位置を占めていたことがわかります。これは、江戸時代の「本草学」が持つ広範な対象から、近代的な「植物学」という専門分野へと移行する過渡期における役割を示唆しています。広範な博物学の知識を基盤としつつ、有用植物という実用的な側面から近代植物学の応用分野を切り開きました。こうした活動は、近代科学が専門分化していく過程において、従来の「本草学」の枠組みを実用的な「応用植物学」へと発展させた先駆的なものでした。単なる知識の収集ではなく、それを社会の発展に結びつける「実学」としての植物学の確立に大きく寄与したのです。


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1.本草学から近代植物学へ:田中芳男の学術的基盤




田中芳男は天保9年(1838)に医師の三男として誕生しました。幼少期から読書に親しむだけでなく、山野草からエキスを抽出したり、化学薬品を自製したりするなど、実践的な活動に早くから関心を示していました。こうした幼少期の経験が、後の博物学者としての素養を培ったと考えられます。


18歳になった安政3年(1856)、名古屋へ赴き、洋学の大家であり本草学の権威であった伊藤圭介(1803-1901)に師事しました。伊藤圭介は名古屋の本草学の中心的人物であり、来日時のシーボルトとも交流があった大学者でした。伊藤のもとで医術よりも本草学に傾倒し、その基礎から実地の採薬までを本格的に修得しました。わずか3年間の修行でしたが、この時期から後の膨大な資料集となる『捃拾帖』の第1冊目の作成を始めています。


文久元年(1861)、幕府の洋学研究機関である蕃書調所(後の開成所)に物産学出役として出仕し、海外から送られてきた植物類の試験栽培や国内の産物調査を担当しました。師である伊藤圭介が辞職・帰郷した後も他の物産方要員と共に業務を継続し、フランスの蔬菜や樹木の種子110種の播種、落花生、馬鈴薯、菊芋、亜麻、カミツレなど、多岐にわたる有用植物の試作を行いました。特に菊芋に関しては、アメリカ人が食用にしていたものが日本に伝わった際、洋書を調べて「球根向日葵」と呼ばれる球根植物であることを知り、自ら「菊芋」と命名したというエピソードが残されています。


慶応3年(1867)、幕府の要員としてパリ万国博覧会に派遣され、日本の出品物の輸送と展示を担当するために渡仏しました。万博開催中の約10ヶ月間、会場を巡るだけでなく現地の植物園や博物館を精力的に訪れ知見を広めました。この滞在中、特に海外の種苗商から日本の気候に適した有用植物の種子や苗を積極的に購入し、日本に持ち帰ったことが「経歴談」に記されています。明治維新後も、ウィーン万国博覧会(1873)やフィラデルフィア万国博覧会(1876)に事務官として派遣され、西洋の最新知識を吸収しつつ日本の文化や産業を紹介する役割を担いました。これらの海外経験は、博物学研究に国際的な視点をもたらし、近代国家建設における植物の重要性を再認識させる決定的な契機となりました。


伊藤圭介に師事して本草学を学んだことは、伝統的な日本の自然認識を深く理解していたことを示します。しかし、幕府の蕃書調所における「物産学」への従事や海外万博での経験を通じて西洋の「博物学」に触れたことで、単なる本草学者に留まらず、実用性や分類学を重視する近代的な博物学へと視点を広げました。特に、海外の種苗商から積極的に植物を収集した行為は、知識の収集だけでなくその応用と実用化を強く意識していた証拠です。このことから、田中芳男は江戸時代から続く本草学の伝統を継承しつつも、開国後の国際的な知識交流を通じて近代的な応用植物学へと発展させた重要な人物であったと言えます。学術的基盤は、まさに伝統と革新の融合の上に成り立っていたのです。


複数回にわたり万国博覧会に派遣されたことは、単なる展示担当者ではなく、日本の近代化に必要な「新知識」や「有用植物」を積極的に探求するミッションを帯びていたことを示唆します。植物園や種苗商を訪れて植物を買い入れたという記述は、博覧会が単なる文化交流の場ではなく、具体的な技術や資源の導入窓口として機能していたことを明確に示しています。これは、明治政府が「殖産興業」を国是とする中で、いかに海外の知識を貪欲に吸収しようとしていたかという国家戦略の側面を浮き彫りにします。万国博覧会は、田中芳男にとっても近代日本にとっても、西洋の先進的な農業技術や有用植物を直接的に学び導入するための重要な「学習と導入のプラットフォーム」でした。一連の活動は、日本の農業技術の飛躍的な発展に不可欠な基盤を築いたのです。


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田中芳男・博物学コレクション




2.有用植物の導入と品種改良:日本の農業近代化への貢献




田中芳男は、キャベツ、落花生、タマネギ、白菜など、現在日本の食卓に欠かせない多くの農作物の導入を手がけた中心人物です。その手によって導入作物の多くが日本の土に植えられ、全国に広まっていきました。蕃書調所時代から、フランスの蔬菜や樹木の種子110種の播種、落花生、馬鈴薯、菊芋、亜麻、カミツレの試作など、多岐にわたる試験栽培を行いました。特に菊芋は、アメリカ人が食用にしていたものを日本に導入し、自身が「菊芋」と命名したという逸話があります。さらに1883年には沖縄県八重山に赴き、キニーネの栽培試験のために調査を行い、その開発を建議しました。


リンゴとの関わりは慶応元年(1865)に始まります。当時、巣鴨の福井藩邸に遣米使節が持ち帰ったリンゴ樹がありましたが、その枝を譲り受け、在来種に接ぎ木を試みました。これは我が国におけるリンゴ接ぎ木の第1号とされています。明治期には農商務省に出仕し、現在の新宿御苑に設けられた試験場で農作物の導入と増殖を継続しました。明治8~9年には米国から苗木を取り寄せ、増殖した2万本の苗木を東北・長野などに配布し、我が国のリンゴ栽培の本格的な源流を築きました。農務局長時代には、青森県に出張した際、我が国に侵入したばかりのリンゴワタムシを発見して即座に防除を指示するなど、単なる官僚に留まらない技術者としての実践的な側面も発揮しました。


自ら育成したビワの品種「田中ビワ」は、現在でも根強い人気を維持し現存しています。明治21年(1888)からは品種として全国に普及し、その特徴は実の大きさにあります。平成6年(1994)現在、田中ビワの栽培面積は第2位を占めるほどです。この品種は、長崎で食べたビワを持ち帰り自宅で栽培したことが始まりとされており、現在も愛媛県や千葉県等で栽培されています。


植物学への貢献は、単に植物を分類・記述する「博物学」の範疇に留まらず、海外から導入した有用植物を日本の土壌や気候に適応させ、品種改良を通じて「産業」として確立させるという明確な「応用農学」の視点を持っていました。リンゴやビワの事例は、学術研究だけでなく具体的な農産物の生産性向上と国民の生活改善に直結していたことを示しています。これは明治政府の殖産興業政策と完全に合致しており、専門知識が国家の発展に直接貢献した典型例です。このことから、田中芳男は近代日本の農業の「文明開化」を主導した人物であり、その植物学研究は単なる科学的探求ではなく、国家の経済基盤を強化するための戦略的な実学であったと言えます。新しい知識を社会に実装する「イノベーター」としての役割を担っていたのです。


農商務省農務局長という要職にありながら青森県でリンゴワタムシを発見して防除を指示した逸話や、自ら「田中ビワ」を育成したことは、単なる官僚や学者ではなく、現場の課題を解決して具体的な成果を生み出すことに情熱を燃やす「根っからの技術者」であったことを示しています。この実践的な姿勢が、導入した植物や改良品種を日本全国に普及させ定着させる上で極めて重要でした。成功の要因の一つは、理論と実践を兼ね備えた稀有な才能にありました。技術者としての視点が机上の空論に終わらせず、日本の農業に具体的な変革をもたらす原動力となったのです。


表:導入・改良に貢献した主要植物

植物名(和名)

導入・改良時期

具体的な貢献内容

現在の影響

リンゴ

慶応元年(1865年)〜明治8-9年

在来種への接ぎ木(日本初)、米国からの苗木導入・増殖、東北・長野への配布、リンゴワタムシの防除指示

我が国のリンゴ栽培の源流となる

田中ビワ

明治21年(1888年)〜

長崎のビワから大型品種を選抜・育成

現存し、栽培面積第2位(平成6年現在)を占める人気品種

キャベツ

幕末〜明治期

日本への導入と普及の中心人物

現在日本の食卓に不可欠な農作物

落花生

元治元年(1864年)〜

蕃書調所での試験栽培と普及

現在日本の食卓に不可欠な農作物

タマネギ

幕末〜明治期

日本への導入と普及の中心人物

現在日本の食卓に不可欠な農作物

白菜

幕末〜明治期

日本への導入と普及の中心人物

現在日本の食卓に不可欠な農作物

菊芋

元治元年(1864年)〜

蕃書調所での試験栽培、自ら「菊芋」と命名

-

亜麻

慶応元年(1865年)〜

蕃書調所での試作、繊維を取り出して布を織る試み

-

カミツレ

慶応元年(1865年)〜

蕃書調所での試作

-

キニーネ

1883年〜

沖縄県八重山での栽培試験と開発建議

-

オリーブ

明治期

試作・紹介

-

チューリップ

明治期

試作・紹介

-




3.著作活動と知識の普及:植物学情報の体系化




主著である『有用植物図説』は、田中芳男が監修した植物図譜です。この図譜は図譜3冊、解説3冊、目録索引1冊の合計7冊で構成され、明治24年(1891)に大日本農会から刊行されました。当時の日本の有用植物に関する知識を体系的にまとめたものであり、近代農学の普及と発展に大きく貢献しました。


『有用植物図説』以外にも、数多くの著作や資料作成に携わりました。例えば『新撰日本物産年表』には、物産方での試験栽培や培養の具体的な記録が記されています。フランスの蔬菜や樹木の種子110種の播種、元治元年(1864)の落花生・馬鈴薯・菊芋などの栽培、慶応元年(1865)の亜麻やカミツレの試作などが詳細に記述されています。


また、物産方で作成された図譜『海雲楼博物雑纂』にも関与しており、前述の菊芋や亜麻の試作が公式に記録されています。この図譜は、伊藤圭介の専門外であった小動物や海洋生物なども含まれており、当時の博物学者の広範な研究姿勢をうかがわせます。図だけでなく、和名、リンネ分類名、ラテン名、オランダ名、植物の発芽時期、葉の形、花、結実状況など、詳細な調書が作成されていたことも特筆されます。


慶応2年(1866)12月11日に英国船エゾフ号に乗船しフランスへ出航した際の詳細な記録『博覧会日記』も、植物学への関心を示す重要な資料です。日記には、香港での草木や竹木、シンガポールでの熱帯植物(バナナを含む)、セイロンでの椰子類、エジプトでの砂地と草木の欠如など、旅の途中で目にした自然物に関する記述が含まれています。物産方での活動を念頭に置いた記述であり、国際社会の中で日本を見つめ直す目を養った様子が伝わってきます。

さらに、その生涯を象徴する資料として、約60年間の長きにわたり催し物のチラシや商品ラベル、新聞の切り抜きなどの紙片をスクラップした98冊にも及ぶ膨大な資料集『捃拾帖』があります。名古屋での修行時代、先輩の雀庵からスクラップブックを見せられ、「本草を研究する者は産地を正さねばならない。産地を正そうとするには博聞多識でなくてはいけない」という教えを受け、情報収集の重要性を深く認識しました。有用性・実用性を追求するためには関連情報を集約整理し、必要に応じて参照できるようにすることが必須であるという信念が『捃拾帖』には反映されています。特に農林水産業方面の情報が多数収録されており、三田育種場販売の野菜の種の袋なども含まれます。また、立体物の表面の凹凸を模写する「搨写(フロッタージュ)」の技法も得意とし、菓子の現物や植物の葉、幹、断面などを記録して『捃拾帖』の随所に貼り込んでいます。これらは蔵書約6000冊とともに、東京大学に「田中芳男文庫」として保存されており、明治・大正期の殖産資料として極めて貴重です。


東京大学附属図書館


一連の著作活動は単なる学術的記録に終わらず、『有用植物図説』という形で「有用植物」に焦点を当てて大日本農会から刊行したことには、知識を一般の農家や産業界に普及させ実用化を促す強い意図がありました。また『捃拾帖』に見られる徹底した情報収集と整理は、情報を「生きた資源」として捉え、いつでも活用できるように体系化しようとしていた証拠です。情報が体系的に整備されていなかった近代化途上の日本において、新しい知識を効率的に社会全体へ広めるための実践的な回答でした。単なる研究者ではなく、知識の「伝道者」であり「インフラ整備者」でもあったと言えます。著作活動を通じて近代日本の農業と産業の基盤となる知識体系を構築し、その普及により社会全体のリテラシー向上に貢献したのです。


『捃拾帖』が約60年間にわたって作成され、チラシや商品ラベルといった「雑多な紙片」まで含まれていることは、当時のあらゆる情報を博物学の対象として捉え、実用的な価値を見出そうとしていたことを示しています。情報整備が未発達だった時代において、個人の努力で広範な知識をいかに収集し整理したかを示す貴重な事例です。また、「搨写」という技法を用いて立体物を記録していた点は、当時の技術的制約の中で正確な情報を残そうとした工夫をうかがわせます。ゆえに『捃拾帖』は、個人による情報収集術の集大成であると同時に、幕末から明治にかけての日本の社会、経済、科学技術の変遷を映し出す「一次資料の宝庫」であり、近代博物学が社会のあらゆる側面と結びついていたことを象徴しています。




4.植物学教育と関連機関の設立:次世代への遺産




田中芳男は「日本の博物館の父」として知られ、町田久成とともに「博物館」という和製漢語の普及に貢献しました。明治初期には大学南校物産局の担当となり、町田の片腕として博物館建設に尽力、上野の博物館や動物園の創設に深く関与し、内国勧業博覧会審査官も歴任しました。博物館の設立を博覧会や殖産興業の収集品を展示する施設として構想しており、実用的な知識の普及を重視していました。特に、日本最初の産業博物館である伊勢の神宮農業館の創立には多大な力を注ぎ、東京農業大学の前身である東京高等農学校に標本室を設置して実物資料を重視した実学教育を推進しました。


また、駒場農学校(1878年創立、後の東京大学農学部の前身)の設立に参画し、近代的な植物学教育の基盤を築きました。明治9年(1876)には東京農学校(後の東京大学農学部)の発案者の一人となり、大日本農会(1881結成)、大日本水産会(1882創設)、大日本山林会(1882創設)といった農林水産業の振興を目的とした主要団体の創設にも貢献しました。これらの各会で顧問や大日本山林会の幹事長(後の会長)を長きにわたり務め、産業界に深く寄与しました。大日本農会附属私立東京高等農学校(現在の東京農業大学の前身)では初代校長を務め、教頭の横井時敬と共に学校の研究と教育を大きく発展させました。標本室の設置、農場の拡大、養蚕舎や温室などの施設の充実、新校舎の落成など、学校整備に尽力した実績が残されています。


植物学者の牧野富太郎と親交があったことも知られています。牧野は24歳年下でしたが、師弟関係を超えて親しく交流し、手紙のやり取りが残されています。飯沼慾斎の『草木図説』の新訂版出版を懇願する手紙を送るなど、互いの学術活動を尊重して協力関係を築いていました。有用植物の実用化や産業応用を重視した博物学的なアプローチは、牧野のような純粋な植物分類学者とは異なる視点であり、日本の植物学が多角的に発展していく上で重要な役割を果たしました。


町田久成と共に「博物館」という和製漢語を普及させ、東京国立博物館や上野動物園の設立に尽力したことは、西洋の「ミュージアム」の概念を日本に導入して基盤を築いたことを意味します。博物館構想が「博覧会や殖産興業の収集品展示施設」であった点や、東京高等農学校に標本室を設置して実物資料を重視した実学教育を推進したことは、博物学を単なる学術研究に留めず、国民への啓蒙、産業振興、次世代の育成という「実学」の視点から捉えていたことを示しています。資料に実際に触れながら学び役立てることこそが実学であるという信念のもと、近代日本の「知のインフラ」を整備した先駆者と言えます。博物館や教育機関を通じて西洋の科学知識を日本社会に根付かせ、応用することを可能にし、知識の収集から社会還元へと博物学の役割を拡大させました。


牧野富太郎との交流は、明治期の日本の植物学が多様なアプローチによって発展していたことを物語っています。有用植物の導入や品種改良、産業振興に重きを置いた「応用植物学者」としての側面と、植物分類学や新種の発見に情熱を注いだ牧野の「基礎植物学者」としての側面。異なる専門性を持つ二人が互いを尊重し協力し合ったことは、日本の植物学全体が多角的に発展する一因となりました。『草木図説』の出版を懇願した逸話は、牧野の分類学的な知見を高く評価し、それが産業応用にも資すると考えていた可能性を示しており、基礎と応用の連携の重要性を浮き彫りにしています。この関係性は、近代日本の植物学が純粋な科学的探求と実用的な応用という二つの柱によって支えられていたことを象徴しており、学術的な分業と連携が学問全体の発展に不可欠であることを示唆しています。




5.田中芳男が日本の植物学にもたらした多角的影響




田中芳男は、幕末から明治にかけての激動期において、日本の植物学、ひいては近代日本の発展に多大な貢献を果たしました。伝統的な本草学を深く理解しつつ、西洋の近代博物学、特に植物学の知識を積極的に導入して日本の風土に適応させることで、応用植物学の分野を確立しました。その活動は単なる学術研究に留まらず、リンゴや田中ビワなどの有用植物の導入・改良、そして全国的な普及を通じて、日本の農業生産性の向上と国民生活の豊かさに直接貢献しました。これは明治政府の「殖産興業」政策の中核をなすものであり、日本の近代化に不可欠な基盤を築いたと言えます。


さらに、東京国立博物館や上野動物園といった近代科学と文化の象徴となる機関の設立に尽力しただけでなく、駒場農学校(東京大学農学部)、大日本農会、大日本山林会、大日本水産会、そして東京農業大学の前身校の初代校長として、農業教育と研究の基盤を整備しました。また、『有用植物図説』や約60年間にわたる膨大な『捃拾帖』といった著作活動を通じて収集した広範な知識を体系化し、次世代に継承する道を拓きました。これらの資料は、現代においても貴重な歴史的・科学的資料として多くの研究者に利用されています。


その生涯は、学問と実用、知識の収集と社会還元がいかに密接に結びついているかを示す好例です。単に知識を蓄積するだけでなく、それを社会の具体的な課題解決に応用することの重要性を体現しました。持ち合わせた先見の明と実践力は、現代においても持続可能な農業の発展や科学技術の社会実装を考える上で、重要な示唆を与え続けます。田中芳男は、激動の時代において科学の力を信じ、それを国家と国民の幸福のために最大限活用しようとした、真の近代日本のパイオニアでした。







参考









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