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モダンデザインの金字塔『非水百花譜』に咲く清雅なる生命:杉浦非水が拓いた植物美の境地

2024年9月22日
読了時間: 9分

更新日:8月12日




1. 花咲く風土の余韻:四季の調べと美意識の源流




静謐な空気の漂う空間で一枚の多色摺木版画に向き合うとき、そこに広がるのは単なる植物の写生を超えた、生命の律動とモダンな美意識が調和する小宇宙です。しなやかに蔓を伸ばす朝顔の曲線、重厚な花弁を優美に広げる牡丹、そしてかすかに露を孕んだような瑞々しい野の草花たちが、大正という時代の息吹を吸い込みながら、今なお色褪せることのない鮮烈な存在感を放っています。


日本のグラフィックデザインの礎を築いた巨匠、杉浦非水が手がけた植物図集『非水百花譜』は、西洋から渡来したモダンデザインの感性と、伝統的な日本画の写生精神、さらには近代植物学の客観的視点が類まれなる高解像度で結晶した至高の芸術遺産です。大正9年(1920年)から大正11年(1922年)にかけて刊行されたこの作品集は、当時の文化人や美術愛好家を歓喜させ、今なお観る者の心を静かに揺さぶり続けています。


一輪の花が織りなす繊細なフォルムと、そこに秘められた悠久の自然観は、私たちが多忙な日常の中で見落としがちな季節の移ろいや自然への畏敬を思い起こさせます。杉浦非水がいかにして植物の生命を捉え、それを木版画という媒体に昇華させたのかについて、その美的構造、植物学的背景、そして描かれた花々に託された精神世界を紐解きながら、日常の傍らに咲く植物と美術画の間に流れる豊かな物語へと誘います。




2. 木版の紙上に咲き匂う百花:写実と陰影の狭間に見る美




杉浦非水は明治9年(1876年)、愛媛県松山市に杉浦朝武として生まれました。当初は四条派の画家や東京美術学校(現在の東京藝術大学)の日本画科で川端玉章に師事し、伝統的な日本画の描線を基礎から学びました。しかし、洋画家の黒田清輝がフランスから持ち帰った1900年パリ万国博覧会の最新図案や、アルフォンス・ミュシャをはじめとするアール・ヌーヴォーの美学に遭遇したことで、その芸術的運命は大きく転換することになります。有機的な曲線と合理的な装飾性に衝撃を受けた非水は、日本画から新時代のグラフィックデザイン(当時の「図案」)の世界へと足を踏み入れました。


明治41年(1908年)に三越呉服店(現在の三越)の嘱託となり、明治43年(1910年)には図案部主任に就任した非水は、PR誌の表紙やポスターを手がけ、「三越の非水か、非水の三越か」と謳われるほどの流行創出者となりました。明治38年(1905年)に「非水」の雅号を使い始めて以降、商業美術の第一線で活躍し、後には多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代校長を務めるなど近代デザイン教育にも多大な貢献を果たし、昭和30年(1955年)には日本芸術院恩賜賞を受賞しています。


非水のキャリアにおいて、グラフィックデザイナーとしての円熟期であり、かつヨーロッパ遊学直前の大正9年(1920年)3月に満を持して起工されたのが『非水百花譜』です。本作は、春陽堂を刊行元として会員限定600部の予約頒布制という極めて贅沢な形態で世に送り出されました。大正11年(1922年)9月までに全20輯、100点に及ぶ木版画集として完結した本作は、非水自身が丹念に描いた鉛筆スケッチを原画としています。


美術史的な技法解剖において最も特筆すべきは、線描の性質と木版摺の極致です。非水の原画は毛筆ではなく鉛筆によって引かれているため、筆線特有の肥痩やか細り、かすれがなく、極めて理知的で平滑な輪郭線を保持しています。この精緻な鉛筆線をもとに、彫師の大倉藤太が極小の狂いもなく木版を彫り上げ、摺師の田口喜久松が多色摺りの微妙なグラデーションと繊細な色調を見事に再現しました。

さらに画面には、花弁や茎、葉脈などの質感や立体感を表現するための「空押し」と呼ばれる無色の盲圧技法が部分的に施されています。用紙には、発行元である春陽堂の名が水透かしとして漉き込まれた最高級の鳥の子紙が使用されており、版画作品としての工芸的価値を極限まで高めています。


作品の構成も独創的であり、各輯には多色摺りの木版画本紙に加え、鼠色一色摺りで植物の構造を客観的に描いた「投影写生図」、さらには非水自身が撮影した実物写真と詳細な植物学的解説が添えられた3点1組の形式が採られました。これは、フランスのアール・ヌーヴォーの巨匠ウジェーヌ・グラッセらが提示した「自然の観察から装飾図案へ昇華させる」という西洋近代のアプローチと、東洋伝統的花鳥画の精神が高次元で融合した極めて先進的な美の構造といえます。




3. 新しき美の風を追って:杉浦非水が歩んだ創造の小径




『非水百花譜』に描かれた100種の植物群を観察すると、そこには明治から大正期にかけての日本の近代花卉文化と園芸史の動向が鮮やかに反映されています。収録されているモチーフは、牡丹、芍薬、藤、蓮、燕子花といった古来日本の伝統的な園芸品種や野生植物にとどまらず、明治以降に海外から導入された西洋草花(洋花)が幅広く含まれています。


江戸時代における日本の園芸文化は、大名から庶民に至るまで熱狂的なブームを巻き起こし、菊や朝顔の変異株、斑入り植物などの変種を珍重し珍奇な仕立てを競う愛好家中心の文化でした。しかし、時代が明治から大正へと移り変わると、横浜植木株式会社をはじめとする種苗商の手によって、大待宵草、麝香豌豆(スイートピー)、凌霄葉蓮(ナスタチウム)、紫露草などの洋種花卉が大量に輸入・栽培されるようになり、和洋折衷のモダンな生活空間や都市生活者のガーデニング文化として広く定着していきました。


非水は、野山や自邸の庭に咲くこれらの花々を徹底した観察眼で写生しました。植物学的な解剖図のような精密さを持ちながらも、決して冷酷な標本図に陥ることなく、蔓のうねりや葉の表裏に見られる生命の傾きを捉えています。例えば野葡萄や蔓茘枝のしなやかな蔓の描写には、アール・ヌーヴォー特有の装飾的リズムが投影されつつも、植物の自生環境や伸長形態という生態学的真実が見事に捉えられています。


大正9年(1920年)にスタートした初版の刊行は高い評価を得て完結しましたが、大正12年(1923年)の関東大震災により、春陽堂に保管されていた初版の木版木はすべて焼失してしまいました。しかし、非水の手元には入念な原画とスケッチが大切に保管されていたため、昭和4年(1929年)6月から昭和9年(1934年)1月にかけて、再び彫師と摺師の手により『非水百花譜』再版本(昭和版)が刊行されることとなりました。


比較項目

大正初版本(大正9年〜大正11年 / 1920年〜1922年)

昭和再版本(昭和4年〜昭和9年 / 1929年〜1934年)

刊行背景と頒布形態

春陽堂より全20輯(各5図・計100図)として会員600部限定で分冊刊行

関東大震災(1923年)による初版版木焼失を受け、保存原画から再刻して刊行

制作・技術体制

杉浦非水の原画に基づき、多色摺木版・空押し・水透かし鳥の子紙を使用

彫師・大倉藤太、摺師・田口喜久松ら最高峰の職人技術を維持して復元

収録モチーフと構成

全100点の基本花卉を収録(多色摺本紙・投影写生図・写真解説の3点1組)

初版から4種の植物を差し替え、2種の構図変更を加えた全100点(補正版)

美術史的・文化的意義

アール・ヌーヴォーと日本画技法を融合させた大正モダンデザインの至宝

災害からの復興を象徴し、昭和初期におけるグラフィックデザインの金字塔


この対比が示すように、昭和再版本においては、初版の忠実な復元にとどまらず、一部の植物(4種)の差し替えや構図の改変が行われ、非水の植物美に対する探求が時代を超えて一層深められたことが分かります。




4. 大正ロマンの風彩:曲線と和の意匠が織りなすモダン




杉浦非水が『非水百花譜』において草花を描いた動機は、単なる客観的な図鑑制作や商業的デザインの素材集めに留まるものではありませんでした。非水は大正5年(1916年)の著書『非水の図案』の中で「図案は自然の教導から出発して個性の匂ひに立脚せねばならぬ」と述べており、自然に対する深い敬意と画家自身の精神性の投影を何よりも重視していました。


描かれた植物には、日本の伝統文脈における豊かな象徴性と精神世界が息づいています。たとえば「蓮」は、泥中から出てなお清らかな大輪の花を咲かせる姿から、禅の精神や仏教的な純潔・開悟の象徴として敬われてきました。非水は蓮の構図において、広大な葉とまっすぐに伸びる茎の直線を巧みに配置し、画面全体に凛とした静寂と気品を漂わせています。


また、「藤」や「燕子花」、「八重桜」は『伊勢物語』や古今和歌集をはじめとする古典文学の世界と深く結びついており、王朝文化の優雅さや「あはれ」の美意識を想起させます。藤の花房が垂れ下がる繊細なアール・ヌーヴォー的曲線は、平安貴族が愛でた優美な情趣と見事な調和を見せています。

さらに、縁起や吉祥の文化的意味合いを持つ植物も丹念に描かれています。赤い実をつける「南天」は、「難を転ずる」という語呂合わせから魔除けや長寿の吉祥木として好まれてきました。極寒の季節に先駆けて咲く「梅」や「椿」は、忍耐と高潔な精神の象徴として、武士の時代から現代に至るまで尊ばれています。


非水は、西洋から渡来した合理的なデザイン思考を保持しながらも、植物の背後にあるこうした日本人の精神構造や言霊文化、古典的文脈を自然に画面へと織り込みました。その結果、『非水百花譜』は、グラフィックなモダンさと日本伝統の情緒が奇跡的な均衡で同居する、唯一無二の小宇宙となったのです。




5. 時代を越えて咲き誇る一冊:現代へ受け継がれる文化の息吹




大正9年(1920年)の刊行から100年以上の時を経た今もなお、『非水百花譜』が放つ瑞々しい光彩は少しも陰ることがありません。杉浦非水が注ぎ込んだ情熱と観察眼、そして木版職人たちの匠の技が一体となって生まれたこの画譜は、時代や流行の移り変わりを超越し、普遍的な植物の美しさを伝えています。


情報が氾濫し、目まぐるしく変化する現代社会を生きる私たちにとって、一輪の花の構造に耳を澄ませ、木版画の静けさと向き合う時間は、忘れかけた感性を呼び覚ます贅沢なひとときとなります。一弁の花びら、一枚の葉のうねりに宿る生命の神秘を感じ取る心は、多忙な日常に深い安らぎと豊かさをもたらしてくれます。


日常のふとした瞬間に一輪の花を活け、あるいは一幅の描かれた植物画に目を留めること。それ自体が、私たちが長い歴史の中で育んできた風流であり、心を育む日本の伝統花卉文化の神髄です。日本花卉文化株式会社は、これからも花と美術が織りなす悠久の物語を紐解き、人と植物が心を通わせる豊かな暮らしの発信を続けてまいります。







多色摺木版画のみ 全20輯


杉浦非水 著『非水百花譜』第1輯,春陽堂,大正9-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13702604












参考/引用








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