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日本の植物学の夜明けを告げる至宝:「小石川植物園草木図説」が織りなす科学と美の世界

2025年5月1日
読了時間: 8分

更新日:8月5日



1. 文明開化の青嵐にそよぐ緑の聖苑と解き放たれた知性




江戸という泰平の世が幕を閉じ、明治という新しい時代が産声をあげたとき、日本の学術文化は洋々たる変革の大波に洗われていました。徳川幕府の貴重な薬草園として長い歴史を刻んできた小石川御薬園は、維新の動乱を経て東京大学の附属植物園へと生まれ変わり、近代日本における植物学研究の象徴的な拠点としての歩みを踏み出しました。古来、日本には自然の恵みを薬用や実用性の観点から分類し愛でる本草学の豊かな伝統が存在していましたが、西洋からもたらされた分類学や形態学という客観的な視座と出会うことで、植物を単なる有用物ではなく独自の構造を持つ生命体として捉え直す知の転換が巻き起こりました。  


この激動の時代において、園内に生息する多様な草木を正しく同定し、世界共通の学術言語であるラテン語の学名とともに体系化することは、近代国家としての日本の知的水準を世界に示す極めて重要な国家課題でした。明治10年(1877年)に出版された『小石川植物園草木目録』、そして明治13年(1880年)の『小石川植物園草木目録後編』によって植物の名称が整理されると、次なる飛躍として、それらの真姿を精緻極まる図版として紙上に留める歴史的事業が始動しました。こうして結実した『小石川植物園草木図説』は、瑞々しい生命の呼吸をそのまま描き出した作品であり、伝統的な美意識と近代的知性が美しく融合した、日本の近代植物学の幕開けを鮮やかに告げる金字塔となったのです。



 

2. 時代を紡いだ二人の巨星と絵師が残した緻密なる知の遺産




『小石川植物園草木図説』の編纂という壮大な偉業は、幕末から明治へと至る激動期を静かなる情熱で生き抜いた二人の巨星、伊藤圭介と賀来飛霞の固い絆と卓越した知見によって成し遂げられました。尾張国名古屋の地に文政3年(1803年)に生まれた伊藤圭介は、長崎でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに深く学び、文政12年(1829年)には『泰西本草名疏』を著してカール・フォン・リンネの二名法や分類体系を日本へ初めて体系的に導入した先駆者です。伊藤圭介は「雄しべ」「雌しべ」「花粉」といった今日私たちが日常的に使用する基本的な植物学用語を考案し、明治10年(1877年)に東京大学理学部員外教授に着任、のちの明治21年(1888年)には日本最初の理学博士となった学界の重鎮でした。

 

一方、豊後国に文化13年(1816年)に生まれた賀来飛霞は、帆足万里や山本亡洋のもとで医学と本草学の奥義を修め、さらに画人の十市石谷から絵画の技法を修得した希代の研究者でした。飛霞は安政5年(1858年)や明治9年(1876年)にコレラが大流行した際には医師として救療に奔走し、従弟らとともに民間初の反射炉による大砲鋳造に尽力するなど多彩な才能を発揮した人物です。自らの足を頼りに日本各地の野山を巡り、膨大な標本と精緻な写生図を残していた飛霞は、宇佐郡の公立医学校長を務めていた老境の明治11年(1878年)、62歳にして盟友・伊藤圭介の強い要望に応えて上京し、小石川植物園の取調掛として実務の第一線に立ちました。  


二人が小石川の地で重ね合わせた情熱に、東京大学で植物の描写を専門に担った絵師・加藤竹斎らの卓越した筆致が注ぎ込まれることで、図譜の制作は加速しました。明治14年(1881年)12月に丸善書鋪から刊行された第一冊(巻一)を皮切りに、明治17年(1884年)の第二冊(巻二)を経て明治19年(1886年)に至るまで編纂が続けられた本図譜は、近代科学の厳密さと日本画の優美さを兼ね備えた不朽の文化遺産となったのです。  




3. 野外の観察眼と石版描画技法が昇華させた生命の真姿




『小石川植物園草木図説』が達成した学術的・芸術的昇華の背景には、観察手法の根本的な転換と、当時の最先端技術であった多色石版印刷の存在がありました。安政3年(1856年)から文久2年(1862年)にかけて飯沼慾斎が著した『草木図説』や、天保5年(1834年)に宇田川榕庵が出版した『植学啓原』など、先人たちも西洋植物学の導入を模索していましたが、本図譜はそれをさらに発展させ、肉眼を超える観察眼と表現力を確立しました。伝統的な本草学では薬用価値のある地上部の花や葉が描写の中心となりがちであったのに対し、賀来飛霞らの眼差しは地中に密やかに伸びる根の広がりや、一回性の花器の細部へと注がれました。  


図版においては、植物全体の写生図に加え、花弁を取り去った雄しべや雌しべの構造、花粉の粒状、果実の断面などを拡大して描いた詳細な解剖分図が配置されました。これは、植物の生殖器官の数や配置によって分類を行うリンネ体系の合理的精神を視覚的に結実させたものです。さらに、石版に油性インクで繊細な線を刻み込む石版画技法が採用され、職人の手作業による手彩色が一部に施されることで、和紙の上に生き生きとした生命の質感が表現されました。  


比較軸

伝統的本草学の図譜(江戸時代〜幕末)

『小石川植物園草木図説』(明治時代中期)

研究の根幹目的

生薬資源の識別と効能の探求および実用性の分類

形質や解剖学的構造に基づく近代植物分類学の確立

植物の観察範囲

薬用部位である花や葉など地上部の形態が中心

根系、雌雄蕊、花粉、果実断面を含む個体全体の網羅

名称と記載体系

漢名および和名と効能記述を中心とした解説

和名、漢名、ラテン語学名、英文名称の多角的併記

版画・印刷技法

木版印刷による黒線と一括手彩色や墨線の描き分け

多色石版印刷(リトグラフ)と繊細な手彩色の融合

表現の学術的役割

視覚的な識別と鑑賞を目的とした絵画的表現

分類基準を示す解剖分図を備えた学術的証拠図版

国際的波及効果

国内および漢字文化圏の知識共有に留まる構造

欧米の学会と交換可能な世界水準の学術資料

 

この対比が示すように、本図譜は単に外国の技術を模倣した出版物ではなく、日本人が古来培ってきた自然への深い観察眼という精神的土壌の上に、西洋の科学的手法を消化して再構築した知識の結晶であったと言えます。  




4. 咲き誇る花卉に宿る美学と和魂洋才が照らす精神構造




『小石川植物園草木図説』の誌面をめくると、そこに描かれた牡丹の品種である銀覆輪や、木蘭、更紗木蓮といった花々が、科学的標本としての緻密さを保ちながらも、息をのむような気品と美しさを放っていることに魅了されます。日本人は古来、咲き誇る花の姿に季節の移ろいや儚い命の輝きを見出し、歌に詠み絵に描くことで自らの心を投影してきました。本図譜に横たわるのは、植物を単なる観察対象として冷徹に処理する姿勢ではなく、慈しみをもってその命の真姿に迫ろうとする日本特有の美学です。  


ここには、明治という時代を象徴する和魂洋才の精神構造が色濃く反映されています。西洋から渡来した合理的な科学思想を受け入れつつも、自然に対する崇敬の念や、目に見えぬ細部にまで宿る生命力を愛でる繊細な感性が、絵筆のひとすじ一筋に込められています。客観的な事実の追求と、対象への主観的な美意識が不即不離の関係で調和している点に、日本近代の知的営みが持っていた独自の深みが感じられます。  


完成した図譜が海を渡ると、欧米の植物学者たちはその印刷精度の高さと描画の正確さに驚嘆し、高い賛辞を送りました。これにより、創立間もない東京大学と小石川植物園の名は世界的な研究拠点として国際学術界に刻まれることとなり、日本が自国の文化的・知的主体性を保持しながら世界水準の科学を打ち立てられることを立証したのです。  




5. 時空を超えて咲き継がれる情熱と現代の暮らしへ手渡される面影




明治19年(1886年)3月、東京大学が帝国大学へと改組された際、長年にわたり植物園を支えた伊藤圭介と賀来飛霞は職を辞し、静かな晩年へと向かいました。しかし、彼らが情熱を注ぎ込んだ図譜と採集標本の数々は、のちに「賀来飛霞標本」として国の登録記念物に指定されるなど、歴史の風雪に耐えて今なお眩い光を放ち続けています。  


先人たちが生み出した学術と美の結晶は、時代の変遷を経た現代の私たちの暮らしの中にも確かに息づいています。日本花卉文化株式会社は、かつて伊藤圭介や賀来飛霞が草木に向き合った深い情熱と誇りを受け継ぎ、自然の恵みを現代の都市生活や文化の中へと活かす豊かな花卉文化の発信を続けております。四季折々に咲く花を愛で、その造形の妙に心を寄せる私たちの日常の営みは、明治の黎明期に未知なる学問の扉を開いた先人たちの眼差しと地続きで繋がっているのです。


『小石川植物園草木図説』という不朽の図譜が教えてくれるのは、客観的な科学の眼と、自然をいつくしむ美しい心が重なり合ったときに立ち現れる命の尊厳にほかなりません。先人たちが紙上に咲かせた永遠の花々は、時空を超えて私たちの心に静かな余韻を残し、未来の暮らしを豊かに彩る道標としてこれからも輝き続けます。  








伊藤圭介, 賀來飛霞 編『小石川植物園草木圖説』卷2,[書写者不明],[18--]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536991









参考









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