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草木に寄せる知の面影:屋代弘賢と『古今要覧稿』が織りなす江戸の百花譜

  • 2024年3月8日
  • 読了時間: 8分

更新日:8月7日



1. 泰平の世に咲き薫る知の百花繚乱




江戸時代後期の寛政・文化・文政期から天保期にかけての日本は、約200年に及ぶ泰平の世がもたらした都市文化の隆盛とともに、人々の自然観や学問への探求心がかつてない高まりを見せた時代です。世相の安定は町人文化の開花を促しただけでなく、足元の草木や万物の由来を実証的に解明しようとする知的好奇心を大きく刺激しました。当時の江戸では、朝顔や菊、つつじをはじめとする園芸ブームが吹き荒れ、人々は植物の変種を生み出す育種技術に熱中すると同時に、古来より伝わる植物の歴史や文化的背景を深く掘り起こそうとしていました。


こうした知的な熱気に満ちた時代背景のもとで誕生したのが、近世日本における知識集積の集大成とも評される百科全書『古今要覧稿』です。この壮大な編纂事業の総責任者として指揮を執った人物こそ、幕臣であり国学者・考証学者として不朽の名声を誇る屋代弘賢です。屋代弘賢は、単に文献を写し取るにとどまらず、日本古来の文献と自然界の精緻な観察を融合させることで、散逸の危機に瀕していた日本の伝統知を体系化することを目指しました。


本稿では、屋代弘賢という卓越した知性が歩んだ生涯と交友関係、そして生涯を捧げて編纂した『古今要覧稿』の中に息づく草木への情熱と美学について深く掘り下げていきます。膨大な草木図譜や考証の試みは、当時の日本人がいかに植物と深く交わり、そこに人生の美意識や自然観を投影していたかを現代の私たちに鮮やかに伝えています。




2. 考証の道を拓いた知性の網目と百家の交錯




屋代弘賢は、宝暦8年(1758年)に江戸神田明神下の幕臣である屋代佳房の子として生まれました。幼少期から書に秀でていた屋代弘賢は、天明2年(1782年)に江戸幕府の書役として登用され、寛政4年(1792年)には御祐筆所詰支配勘定役、のちに表祐筆勘定格へと昇進を果たしました。優れた書家としても名高く、ロシアからの国際的な外交文書に対する幕府の返書を清書する重責を担うなど、幕府行政の中枢でその才能を発揮しました。


屋代弘賢の学問的探求心は行政上の職務にとどまらず、多士済々な一流の知識人との交流によって深く耕されました。国学を盲目の大家である塙保己一に学び、和学講談所の会頭を務めるとともに、金字塔的文献集『群書類従』の編纂を力強く助けました。また、和歌を冷泉為村に、儒学を山本北山に学び、幕府の権威的学者である柴野栗山や成島司直とも深い親交を結びました。柴野栗山に従って京都や奈良の古社寺を巡り、国宝級の古文書や宝物を調査した経験は、屋代弘賢の実証的かつ多角的な考証眼を養う上で決定的な役割を果たしました。


屋代弘賢の知の拠点となったのが、上野不忍池の池畔に建設された「不忍文庫」と呼ばれる書庫群です。屋代弘賢は敷地内に3棟の書庫を設け、和漢のあらゆる貴重書や和本、写本を網羅的に収集しました。その蔵書数は実に5万巻におよび、当時の江戸で屈指の個人図書館として学問の発展に寄与しました。不忍文庫には連日多くの学者が訪れ、互いに文献を照らし合わせながら議論を重ねました。屋代弘賢を中心とする知的なネットワークは、特定の流派にとらわれない開放的かつ実証的な考証学の潮流を築き上げる原動力となったのです。




3. 観察の精緻と草木図譜が紡ぐ生命の昇華




屋代弘賢の金字塔である『古今要覧稿』は、当初は個人的な学術探求事業として着手されましたが、文化7年(1810年)にその学術的価値と重要性が評価され、江戸幕府の公式事業として認定されました。文政4年(1821年)から天保13年(1842年)に至る22年間の長きにわたり、屋代弘賢が総判として編纂を主導し、毎年1回から3回にわたって幕府へ調進呈上され続けました。全560巻・179冊におよぶこの百科事典は、神祇、姓氏、時令、地理、草木、人事、器材など20の部門に分類され、各事項の起源、沿革、別名、古文献の引用、関連する詩歌に至るまで徹底的に考察されています。


『古今要覧稿』の特筆すべき構造的特徴は、全体における数量の約6割という絶大な分量が「器材」および「草木」の2部門によって占められている点にあります。従来の中国の本草学や自然史書籍が主に薬用効果や実用的な効能分類に重きを置いていたのに対し、『古今要覧稿』における草木部門は、日本古来の文献に描かれた植物の歴史的・文化的文脈を精細に考証しながら、実物の精密な写生図譜と統合させた点に画期的な革新性がありました。


江戸時代後期の園芸文化は、単なる趣味の領域を超えて植物の生態観察や比較分類学へと昇華していました。屋代弘賢とその編纂チームは、実際に自生する花草や園芸品種の形態、花弁の構造、葉脈の走り方に至るまで細かく観察し、図譜として収めました。これにより、『古今要覧稿』は文字情報による考証と視覚情報による図譜鑑賞が高度に融合した、日本初の本格的大規模類書としての地位を確立しました。


ここで、従来の自然史・本草学のアプローチと、『古今要覧稿』が達成した革新的な知の体系との対比を示します。


比較項目

従来の和本草・本草綱目等の自然史記述

『古今要覧稿』(草木部門)における知の体系

編纂の主軸と目的

薬用効果・生薬としての効能分類や実用性の解明

国学・考証学に基づく草木の起源・沿革・文化的象徴の解明

文献採録の範囲

中国の漢籍本草書を中心とした記述の援用

日本の古典文学(記紀・万葉・和歌)から漢籍に至る広範な考証

図譜と描写のアプローチ

模式的・概念的な草木図版や版画の踏襲

精細な実物写生に基づく生態観察と視覚的鑑賞性の統合

分類体系における比重

植物を生薬の性質(寒熱・薬効)により均等配置

器材・草木部門が全体の約6割を占める物質文化・自然愛好の重層構造


対比からも明らかなように、屋代弘賢の試みは、単なる植物図鑑や薬学書の枠組みを大きく超え、植物という生命体が日本の歴史と文化の中でいかに愛され、言語化されてきたかを包括的に可視化する一大文化プロジェクトであったと言えます。




4. 花木に託された美学と日本人の精神構造




なぜ屋代弘賢は、百科事典の過半を草木や器材の記録に充てたのでしょうか。そこには、江戸時代後期の国学と考証学が到達した、独自の自然観と美意識が存在しています。当時の知識人にとって、花木は単なる鑑賞対象や利用可能な資源ではなく、季節の移ろいや人々の心情、さらには先人たちの精神性が宿る文化的象徴でありました。


朝顔や菊、つつじや梅といった植物は、古代の和歌において人々の喜びや悲しみ、情念を託す媒体として詠み継がれてきました。屋代弘賢は、それらの植物が文献上でどのように称され、時代とともにいかに名称や捉え方が変化してきたかを細かく検証しました。文献上の記述と実物の植物生態とを綿密に突き合わせる作業は、失われつつあった古典の言葉に再び生命を吹き込み、日本人の文化的記憶を甦らせる行為でもありました。


屋代弘賢の学術的情熱は最期まで衰えることがありませんでした。しかし、天保12年(1841年)閏1月18日、屋代弘賢は84歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。長年にわたり幕府に調進呈上されてきた『古今要覧稿』の編纂事業は、翌天保13年(1842年)の呈上をもって中断することとなりました。しかし、屋代弘賢が遺した560巻の稿本と不忍文庫の知的遺産は、その後の明治期における近代学問や植物学、書誌学の成立に対して計り知れない影響を与えました。


自然の観察を通して万物の理を解き明かし、そこに古典の美的感性を重ね合わせる屋代弘賢の姿は、知性と感性が高次元で調和した日本独自の美学を象徴しています。




5. 現代の暮らしへ響き渡る先人の知恵と美意識




屋代弘賢が『古今要覧稿』を通じて提示した草木への深い愛着と実証的な観察精神は、現代に生きる私たちの暮らしや花卉文化の中にも脈々と受け継がれています。季節ごとに咲き誇る花々を愛で、その歴史や由来に思いを馳せながら暮らしに緑を取り入れる姿勢は、江戸の人々が育んだ豊かな植物愛好の精神そのものです。


日本花卉文化株式会社は、屋代弘賢をはじめとする江戸の先人たちが残した美意識と知的情熱を現代の都市生活や住環境に再現し、未来へと継承していく取り組みを推進しています。一輪の花、一株の緑に込められた歴史的文脈や生態的な美しさを紐解くことは、慌ただしい日常の中に深い安らぎと豊かな情操をもたらしてくれます。


屋代弘賢が不忍池のほとりで万巻の書を開き、一木一草の観察に没頭したように、身近な植物たちに温かな眼差しを注ぎ、その物語に耳を傾けることで、自然と調和した豊かな心を育むことができるでしょう。先人たちが築き上げた草木文化の伝統は、時代を超えて現代の私たちの心と暮らしを美しく彩り続けています。



古今要覧稿(一部抜粋)


屋代弘賢『古今要覧稿』[84],写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552374









参考









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