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赭鞭に宿る探求の志と江戸の博物美学:自然を解き明かした先人たちの情熱と命の彩り

  • 2025年1月25日
  • 読了時間: 14分

更新日:8月12日



1. 咲き薫る江戸の百花と知の扉を開く密やかな集い




太平の世が200年以上にわたって成熟を極めた江戸時代後期、天保年間(1830年〜1840年頃)の江戸の町には、四季折々の風物を深く愛でる情緒的な風流とともに、目に見える自然界の真理を客観的かつ客観的に解き明かそうとする旺盛な知的好奇心が充満していました。春に咲きこぼれる桜や初夏の可憐な花々、秋の七草や深山に色づく紅葉、さらには海岸線で拾い集められる多彩な形状の貝殻、そして草むらで繊細な音色を奏でる小さな昆虫たちに至るまで、生きとし生けるものすべてが単なる鑑賞の対象にとどまらず、精密な観察と構造的分類の対象として新たな価値を帯び始めていたのです。それまで主に中国由来の薬物学として親しまれ、漢方の処方や効能の解明を中心に発展してきた本草学は、この時代を迎えて実物の観察と客観的な分類を重んじる日本独自の実証的博物学へと大きな進化を遂げていきました。


参勤交代という幕府の制度によって定期的に江戸邸に滞在する地方の大名たちや、江戸城下に根を張る旗本・御家人、さらには町医者や民間の本草家たちが、身分や格式という当時の厳格な社会的垣根を越えて集う密やかな学術サロンが存在しました。武家屋敷の一室や静かな書斎に持ち込まれたのは、日本各地の山野や海岸で採集された珍しい植物の生株や乾燥標本、海を越えて渡来した異国の奇鳥、そして精緻な筆致で描かれた彩色図画の数々でありました。そこに漂っていたのは、政治的な権力争いや世俗的な利益追及とは一切無縁な、純粋に自然の仕組みと生命の美を理解しようとする熱い探求の志でした。


この深遠な探求の集いこそが、富山藩主の前田利保を中心として結成された本草博物研究会「赭鞭会」であります。自然への深い敬意と鋭い観察眼が融合した赭鞭会の活動は、単なる知識の個人的な蓄積にとどまらず、後世に燦然と輝く美術的・科学的価値を備えた図譜の編纂や、現代へとつながる和製園芸文化の開花へと結実しました。江戸という巨大都市の成熟が生み出した知の結社が残した足跡は、現代の私たちが草木を愛で、自然と対話する精神性の源流を形作っています。


当時の江戸は、政治の権威が集まる中心地であると同時に、日本全国から人、物、そして地域特有の動植物に関する情報が集積する巨大な情報拠点でもありました。各藩の領地からもたらされる珍しい山野草や産物の情報は、江戸の地で交差することによって、一藩の枠組みを超えた学術的ネットワークへと発展していきました。赭鞭会のサロンは、単に珍品を鑑賞して歓談するだけの趣味の場ではなく、各地の植生の違いを比較検討し、名称の混乱を正し、実物と文献を対比させるという、極めて近代的かつ実証的な研究機関としての機能を果たしていたのです。




2. 身分を超えた交わりと画面に息づく写生の構造




日本の自然科学の基盤となった本草学は、古くは奈良時代から中国の書物を通じて導入され、紀元前の伝説的な薬物書である『神農本草経』や、17世紀初頭の文禄・慶長期に日本へと輸入された明代の李時珍が著した大著『本草綱目』に強い影響を受けて発展してきました。徳川家康が『本草綱目』を入手して研究を奨励して以来、文献考証を中心とする漢学的なアプローチが長らく主流でありましたが、元禄21年(1708年)に貝原益軒が著した『大和本草』や、文化年間にかけて広まった小野蘭山による『重訂本草綱目啓蒙』の登場により、日本の風土に根ざした国産物への実証的な視点が根付くことになります。さらに18世紀以降は、長崎の出島を通じて導入された西洋の博物学やオランダ経由の植物分類法、ケンペルやツンベリー、シーボルトといった知識人との交流を経て、本草学は薬用目的を超えた「自然界全体を対象とする総合的な博物学」へとその領域を広げていきました。


このような知の大きな変革期にあって誕生した赭鞭会は、富山藩第十代藩主の前田利保が中心となって立ち上げられました。前田利保は幼少期から植物を深く愛し、江戸の藩邸で200種を超える珍しいアサガオを栽培・交配し、本草学者の岩崎灌園に師事するほどの情熱を持った人物でありました。富山藩主としての多忙な執務のかたわら、前田利保のもとには、筑前福岡藩主で鳥類や蘭学に深い造詣を持つ黒田斉清などの大名層をはじめ、数多くの多才な人物が集うことになります。


旗本の武蔵石壽は、250石扶持の武士として甲府や江戸での務めを果たしたのち、還暦を過ぎてから本草学者として本領を発揮した情熱家でありました。また、同じく旗本で大番組を務めながら虫類や植物の精密な図譜制作に没頭した飯室楽圃、幕府の奥医師として将軍家に仕えながら水産物や昆虫の写生に没頭した栗本丹洲、さらには尾張出身で後に日本初の理学博士となる伊藤圭介といった多彩な才能が参集しました。身分の高い大名から、実務を担う旗本、医学の専門家、民間の研究者に至るまで、彼らは身分制度の厳しい江戸社会において、自然科学という共通の探求心のもとで極めて平等に対話し、知を交換していたのです。


赭鞭会における研究と交流の構造を支えたのは、優れた博物画家・絵師たちによる極めて写実的で洗練された描画技法でした。静物としての完璧な形態と微細な構造を厳密に描き出す服部雪斎の線描技法は「静」の極致と称され、動植物の息遣いや動的な表情を生き生きと捉える関根雲停の写生技法は「動」の極致として並び称されました。また、富山藩のお抱え絵師であった山下守胤や、その長男の山下弌胤、木村立嶽、松浦守美らが手掛けた色彩豊かな下絵は、伝統的な狩野派の筆法を基礎としながらも、対象を客観的かつ構造的に捉える西洋的な精密画法を融合させたものでした。


絵師たちは単に鑑賞用の美しさを追求するのではなく、花弁の枚数、葉脈の走り方、茎の節の構造、雄しべや雌しべの細部、根の広がり方に至るまで、植物学的な特徴を一切の妥協なく描き出しました。画面の余白には和名、漢名、オランダ名、採集場所、効能や生態的特徴が流麗な筆致で記録され、美的鑑賞と科学的記録が見事に調和した独自の世界観が構築されたのです。このような絵師と研究者の密接な協働作業こそが、江戸博物学の大きな力となりました。




3. 経験主義の萌芽と図譜に結実した命の記録




赭鞭会の活動における最大の特質は、過去の古文書や中国の典籍といった机上の文献研究のみに依存せず、実際の標本や生体を観察して実証的に検証する経験主義的な姿勢にありました。定期的に開催された会合の様子を伝える『赭鞭会業品物論定纂』などの記録によれば、会員たちは自ら採集した草木の生株、乾燥標本、珍しい貝殻、昆虫の標本、さらには自作の精密な写生図を会場に持ち寄っていました。例えば天保8年(1837年)11月の集いでは、幕臣の佐橋兵三郎(号・四季園)が持参したオコゼ類の乾燥標本を前に、参加者全員で形態的特徴や分類についての活発な議論が交わされたことが記されています。


赭鞭会の主要メンバーは、前述の大名や幕臣にとどまらず、さらに広範な人物によって構成されていました。馬場大助をはじめ、島花隠、田丸寒泉、佐橋節翁といった研究者たちが熱心に参加し、多角的な研究プロジェクトを推進しました。その代表例が、柿の品種や栽培技法を総合的に整理した専門書『柿品』の編纂であります。島花隠、田丸寒泉、飯室楽圃、佐橋節翁の4名が協働して著した『柿品』は、日本各地に存在する柿の品種ごとの形状、味覚、果肉の特徴、干し柿としての適性などを詳細に比較分類したものであり、江戸時代における果樹園芸と農学の到達点を示す貴重な成果となりました。


また、前田利保の師であり『本草図譜』を編纂した岩崎灌園が文化15年(1818年)に著した『草木育種』に代表されるように、本草学の知見は単なる観察にとどまらず、具体的な栽培技法や品種改良のノウハウへと昇華されていきました。さらに、行方水谿による百合の研究図譜や、幕府の奥医師として18年もの歳月をかけて虫類の写生図譜『千蟲譜』を完成させた栗本丹洲の情熱など、個々の会員がそれぞれ得意とする領域で不滅の業績を打ち立てていきました。


前田利保自身も、大著『本草通串』94巻を編纂したのち、文字だけでは伝えきれない植物の姿や形態分類を提示するため、多色刷りの植物図譜『本草通串証図』の刊行に着手しました。富山藩絵師の山下守胤らが描いた図版は、根の広がりや葉の表面の微細な毛、花の解剖学的構造までを精細に描いており、植物の「葉のかたち」や「根のかたち」によって自然界の秩序を整理しようとした前田利保独自の分類体系が色濃く反映されています。


武蔵石壽は天保14年(1843年)に78歳という高齢で全15巻13冊におよぶ『目八譜』を完成させ、服部雪斎の描く精緻な図とともに、日本全国51カ国250余の地域で採集された貝類991種を体系的に分類・命名しました。現在日本で使われている貝の和名の多くが、この『目八譜』に由来しています。飯室楽圃による『蟲譜図説』12巻もまた、『本草綱目』の分類体系を基礎としながら、日本産の昆虫や両生類、爬虫類など600種から900種以上を体系的に整理した画期的な業績となりました。


さらに、赭鞭会の集いは植木屋長太郎をはじめとする民間の植木職人や園芸家たちとも深く繋がっていました。大名や旗本たちが主導しながらも、現場で植物を育て、品種改良の技術を持つ職人たちの現場の知恵を排することなく積極的に取り入れることで、江戸の園芸熱は一層高まり、朝顔や花菖蒲、万年青(オモト)、キクなどの空前のブームが巻き起こったのです。


研究者・参加者名

身分および社会的立場

代表的な著作および図譜

主な研究・観察対象

達成された学術的・美術的成果と歴史的貢献

前田利保

富山藩第十代藩主 (10万石)

『本草通串』『本草通串証図』

植物全般・アサガオ・魚類

赭鞭会を主宰。山下守胤らに多色刷り図譜を描かせ、葉や根の形態に基づく分類体系を試みた。

武蔵石壽

旗本 (250石扶持)

『目八譜』『甲介群分品彙』『竹譜』

貝類・竹・鳥類

還暦後に本格始動し、服部雪斎の絵とともに991種の貝を命名・分類した日本貝類学の最高峰を構築。

飯室楽圃 (昌栩)

旗本 (220俵・大番組)

『蟲譜図説』『草花図譜』

昆虫類・草花

日本初の体系的昆虫図譜を著した。草花図は伊藤圭介の『植物図説雑纂』に保存され後世に伝わる。

黒田斉清

筑前福岡藩主 (47万石)

『鵞経』『鴨経』『本草啓蒙補遺』

鳥類・植物全般

蘭学に通じ、鳥類研究において卓越した業績を残すとともに、小野蘭山の著作に新知見を補訂した。

栗本丹洲

幕府奥医師

『千蟲譜』『丹洲蟲譜』

昆虫類・水産物

18年の歳月をかけて精密な虫類図譜を著した。その図はシーボルトによって海外にも紹介された。

島花隠・田丸寒泉・佐橋節翁

本草研究者・武家

共著『柿品』

柿の品種および栽培技法

飯室楽圃とともに柿の品種、特性、利用法を詳細に比較・記録した専門農学書を完成させた。

伊藤圭介

尾張医師・のち理学博士

『泰西本草名疏』『植物図説雑纂』

植物全般・西洋分類学

シーボルトに師事してリンネの分類法を導入。赭鞭会メンバーの四散した研究成果を収集・保存した。

佐橋兵三郎 (四季園)

幕臣 (御家人・旗本)

『赭鞭会業品物論定纂』記録

魚類・水産物標本

会合にオコゼ類などの乾品標本を持ち込み、実物に基づく議論と形態比較の場を活性化させた。

服部雪斎・関根雲停

博物画家・絵師

『目八譜』『草木錦葉集』等挿絵

動植物全般の精密写生

「静」の雪斎、「動」の雲停と称され、解剖学的正確さと美的鑑賞性を兼ね備えた写生技法を確立した。




4. 赭鞭の故事に刻まれた精神と自然観の昇華




「赭鞭」という風雅でありながら力強い名称は、中国古代の伝説的な聖天子である神農が、赤く染まった鞭(赭鞭)で野の草木を打ち払い、自らそれを舐めて薬効や毒性をたしかめたという故事に由来しています。この名称を自らの学術結社に掲げたこと自体に、過去の文献や概念的な枠組みのみに依存せず、自らの目と手、そして五感を通じた観察と実践によって自然界の真理を実証しようとする、強い経験主義の哲学が明確に表現されていました。


天保年間という時代は、内政のゆらぎや外国船の接近など、政治的・社会的に様々な変革の予兆が漂っていた動蕩の期でもありました。知者たちがこれほどまでに自然物の精密な観察と記録に没頭した背景には、過酷な世相や人間の都合を超えて、自然界の内に整然と存在する絶対的な秩序を見出し、人間の存在そのものを大きな生命の営みの中に優しく位置づけようとする精神的な昇華があったと考えられます。季節の巡りとともに芽吹き、華やかに花を咲かせ、やがて静かに土へと還っていく草木の姿や、精巧に作られた貝殻の螺旋構造に、先人たちは自らの人生や死生観、そして不変の美学を静かに投影していたのです。


さらに赭鞭会が成し遂げた重要な文化的意義は、厳格な身分階級制度が存在した江戸社会において、自然への純粋な探求心と愛好の情のもとに、完全に対等で開かれた知の交流空間を創出したことにあります。10万石や47万石を領する大名も、家禄数百石の旗本も、将軍の命を預かる奥医師も、民間の本草家や町中の植木職人も、ひとたび草木や標本を前にすれば一人の愛好家・探求者として深く語り合いました。そこにあったのは、格式や権威から完全に解放された純粋な知の歓喜であり、花や生き物を愛する情熱によって結ばれた確かな人間の絆でありました。


日本の伝統的な自然観において、草木や生き物は単なる利用価値のある資源や装飾品ではなく、人間の心と深く響き合う神聖な生命体として敬われてきました。赭鞭会の人々が残した図譜の一筆一筆には、対象を精巧に記録する冷徹な科学的観察眼と同時に、か弱い一輪の花や小さな虫に対しても注がれた温かい慈愛と美的感性が脈々と息づいています。この「科学的客観性」と「詩的慈愛」の絶妙な融合こそが、江戸の博物学が到達した独自の美学でありました。




5. 先人が遺した美意識と現代の暮らしに咲く花卉文化の未来




江戸の地で赭鞭会が生み出した熱い探求心と美的感性は、明治維新という未曾有の社会変革を経て、近代日本の植物学や農業・園芸産業の発展へと力強く受け継がれていきました。赭鞭会の若き参加者であった伊藤圭介が、明治10年(1877年)に東京大学の教授となり、小石川植物園を拠点として近代植物学の基礎を築き上げた軌跡も、江戸の本草家たちが育んだ実物観察の精神と深く繋がっています。また、飯室楽圃の『草花図譜』をはじめとする散逸しかけた江戸の図譜群を伊藤圭介が『植物図説雑纂』として後世に整理・保存したことによって、江戸の知の遺産は途絶えることなく現代へと伝えられたのです。実物を慈しみ、精緻に観察し、正しく記録して後世に伝えていくという姿勢は、日本の科学的思考と芸術表現の双方における尊い礎となりました。


時代が急速に移り変わり、高度なデジタル技術や現代科学が日常の隅々にまで浸透した現代社会においても、私たちが咲き誇る一輪の花に心を奪われ、新緑の芽吹きや秋の紅葉に生きる歓喜を感じる精神構造は変わっていません。住まいの片隅で慈しむ一鉢の花に季節の移ろいを感じ、野に咲く名もなき草花の名を知ることにささやかな喜びを見出す私たちの暮らしには、かつて前田利保や武蔵石壽、飯室楽圃たちが抱いた純粋な好奇心と愛でる心が脈々と生き続けています。


日本花卉文化株式会社は、こうした先人たちの飽くなき探求の足跡と、花木に投影された豊かな美意識を現代の暮らしの中に再び呼び覚まし、心豊かな花卉文化の未来を創造していくことを指針としています。自然の繊細な営みに心を寄せ、植物の命の彩りを慈しむ暮らしは、慌ただしく過ぎ去る現代社会において心に深い潤いと豊かな余韻をもたらしてくれます。江戸の本草家たちが描き出した知と美の輝きは、時を超えて今も私たちの手元で咲く花々のなかに、静かに、そして確固として受け継がれているのです。







  柿品   


柿品は、柿の品種、栽培方法、効能など、多岐にわたる情報を網羅した書物です。 当時の柿栽培に関する知識や技術が体系的にまとめられており、江戸時代における柿栽培の状況を知る上で貴重な資料となっています。  田丸寒泉 ほか『柿品』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536144


  








目八譜(一部抜粋)


『目八譜』は、会員の一人であった武蔵石壽が編纂した貝類図鑑です。991種もの貝が収録されており、当時の貝類研究において重要な資料となりました。武蔵石寿//著,服部雪斎//画『目八譜』第1巻,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286773










蟲譜図説(一部抜粋)


『蟲譜図説』は、飯室楽圃が作成した昆虫図鑑です。中国の本草学書である『本草綱目』の分類に従って、600種以上の昆虫を体系的に分類しており、日本における昆虫分類学の先駆けとなりました。これらの図鑑は、美しい図版とともに詳細な解説が添えられており、学術的な価値だけでなく、芸術的な価値も高い作品として評価されています。  飯室庄左衛門『虫譜図説 12巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606122









参考









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